自分の顔を30秒だけ撮ってみる。たったそれだけのことなのに、そのあとの時間がやたらと長くなることがあります。
まだやったことのない人のために、仮の場面として書いてみます。
机にスマホを置きます。インカメラに切り替えて、椅子に座り直して、録画ボタンを押します。「こんにちは。今日は……」と話し出して、30秒ほどで止めます。
そして、再生します。
そこで先に目に入ってくるのは、自分が話した中身ではありません。自分の顔です。

角度が悪いのかもしれない、と思って撮り直します。今度は少し上から構えます。部屋の照明をつけて、もう一度撮ります。すると顔色が気になります。また撮ります。次は髪型が気になります。
そうしているうちに、何を話すかより、どう映るかのほうばかり考えています。
最後に、撮った動画を全部消します。
消したのは動画です。ただ、その日いっしょに引っ込んだものが、もうひとつあったかもしれません。あなたが話そうとしていた中身のほうです。
顔が気になり始めた時点で、中身の検討は止まっています
カメラの前に座る前、あなたが考えていたのは「何を話すか」だったはずです。
ところが録画を再生した瞬間から、考えることが「どう映るか」に入れ替わります。
この入れ替わりは、自分では気づきにくいです。撮り直しているあいだも頭はずっと動いているので、止まっている感じがしません。でも動いているのは映り方についてで、伝える中身についてではありません。
なぜ、あんなに気になるのか。
僕は、単純に年を取ったからだとは思っていません。それより、頭の中にある自分と、画面に映った自分がそろわないことのほうが大きいと考えています。
人は一日中、自分の顔を見ながら暮らしているわけではありません。自分のことを考えるときも、今の年齢の顔をした人間として思い浮かべているわけではないと思います。頭の中にいるのは、なんとなく昔から続いている自分です。
ところが動画は、頭の中にいる自分ではなく、今の自分を外側から見せてきます。しかも鏡で見るときとは、どこか違って見える。顔色、目の下、ほうれい線、髪。照明のせいなのか、カメラのせいなのか、それとも他人にはこう見えているのか、が分かりません。
分からないので、確かめようとしてもう一度撮ります。そしてまた分かりません。
撮り直しが止まらなくなるのは、意志が弱いからではなく、答えの出ない質問を自分に投げ続けているからだと思います。
「映りが嫌だ」と「発信できない」のあいだには、段差があります
撮った動画を消したあと、考えがこんなふうに進んでいくことがあります。
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1
老けて見える。
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2
こんな姿で人前に出したくない。
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3
そもそも人に見られたくない。
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4
発信は自分に向いていない。
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5
副業も難しいんじゃないか。
ひとつずつ読むと、どれも自然につながっているように見えます。
でも途中で、話がすり替わっています。
「老けて見える」から「人に見られたくない」までは、映り方の話です。ところが「向いていない」から先は、自分に何が渡せるかの話になっています。
カメラ映りが気に入らないことと、誰かの役に立つ情報を渡せるかどうかは、別のことです。
念のために書いておくと、僕はここで「そんなに老けていませんよ」と言うつもりはありません。画面を見て気持ちが沈んだ本人の感覚を、他人が打ち消せるとも思っていません。
だから、老けて見えるかどうかは、決めないままで大丈夫です。「いや、実際そうなんだけど」と思ったままで、この先も読めます。
この記事の答えは、そこではないからです。仮に老けて見えていたとしても、役に立つことを渡せるかどうかは、渡す中身のほうで決まります。
若く見える競争は、勝っても終わりません
映りを良くする方法なら、いくつも知られています。照明を足す。カメラを目の高さより少し上に置く。肌をなめらかにする機能を使う。服を明るい色にする。
それで気持ちが軽くなるなら、使えばいいと思います。僕はそこを否定しません。
ただ、この記事の答えには置きません。理由がひとつあります。
「どうすれば若く見えるか」を考え続けているあいだは、若く見えるか・老けて見えるか、という一本の物差しの上に立ち続けることになります。
その物差しには終点がありません。50歳なら40歳に見えたい。40歳なら30代に見えたい。そして、もっと若く見える人がどこかに出てきます。
つまり、どれだけうまく撮れるようになっても、次に比べる相手が出てきます。
この勝負は、降りていいものだと僕は思っています。負けたから降りるのではなく、そもそも自分の商売がその物差しで測られていないなら、乗る理由がありません。

美容やファッション、モデル、タレントの仕事なら話は変わります。見た目そのものが商品の一部になる場合があるからです。
でも、あなたが渡そうとしているのが知識や経験、判断のしかた、相談に乗ることであれば、競う場所を見た目に置く必要はありません。
物差しを、映りから中身へ置き換える
では何で測るのか。「何を伝えれば、読んだ人の役に立つか」のほうです。
これは気の持ちようの話ではなく、書く内容が変わる話です。
若く見えるか・老けて見えるか。終点がなく、次に比べる相手が出てきます。
何を伝えれば、読んだ人の役に立つか。書く内容が変わります。
たとえば「仕事は効率化しましょう」と書いたとします。これだけだと、どこから手をつければいいかが書いてありません。
同じことでも、こう書けたらどうでしょう。
「毎月末に、3つのExcelを目で見比べて突き合わせていました。1日がかりの作業でした。そこを、こう変えました」
二つ目の書き方には、その人が実際に手を動かした場所が見えます。どこの話をしているのかが、そこで初めて決まります。
- 「仕事は効率化しましょう」
- どこから手をつければいいかが書いてありません
- 「毎月末に、3つのExcelを目で見比べて突き合わせていました。1日がかりの作業でした。そこを、こう変えました」
- どこの話をしているのかが、そこで決まる
ここまで細かいところへ降りると、問われるのは書き手が何歳に見えるかではなくなります。話の中心が、3つのExcelをどうしたか、のほうへ移るからです。
若く見える必要は、もともと無かったんだと思います。具体的なところまで降りて書けたとき、それがはっきりするだけです。
自分を映さない形は、いくつもあります
伝える形は、自分を撮ることだけではありません。
文章で書く。ブログにまとめる。メールで送る。図にする。スライドを画面に映して、そこへ声を重ねる。パソコンの操作をそのまま録画する。音声だけで話す。字幕だけの動画にする。
このどれかが、あなたの伝えたいものに合うかもしれません。
ただし、順番を逆にしないほうがいいです。顔を出さないこと自体が目的になると、今度は「隠す方法」のほうを探すことになりがちです。そうなると、映りを気にしていたときと同じで、中身の検討は進みません。
選ぶ基準は、自分が伝えたいものがいちばん伝わる形はどれか、です。結果として自分が映らない形になるなら、それでいいという順番にします。
顔や声を出すかどうかは、選べるものです。出さないと始まらないものではありません。
そして、価値を持っていることと、その価値を人に届けられることは、別の能力です。あなたの側に中身があっても、届け方を決めていなければ、相手には届きません。逆に言えば、足りないのは中身ではなく形のほうかもしれない、ということです。
今日できることを一つだけ挙げるなら、仕事のなかで人から何度も聞かれたことを、紙に一行書き出すことです。「あれ、どうやってるんですか」と聞かれた場面を思い出して、その質問の形のまま書きます。
書けたら、次の一行に、それを渡すのに撮影が要るかどうかを書きます。
顔に年齢が出るなら、中身にも同じ年月が入っています
最後に、ひとつ問い返させてください。
あなたがこれまでに、誰かの記事を読んで助かったこと、誰かの説明を聞いて仕事が早くなったことがあったとします。
そのとき、その人の若さに助けられたでしょうか。
たぶん、そこではなかったはずです。助かったのは、その人が持っていた中身のほうだったと思います。
だとすれば、読む側のあなたは中身で選んでいることになります。書く側に回ったときだけ、その基準をひっくり返す必要はありません。
顔には、生きてきた年月が出ます。それは事実だと思います。ただ、同じ年月は中身の側にも入っています。年を取っているから偉い、という話ではなく、時間をかけたぶんは中身にも残っている、というだけの話です。
この記事を読んだからといって、明日から売れるようにはなりません。そこは約束できません。
「自分には無理だ」と外していたものが、「この形なら自分にもできるかもしれない」に変わる。戻ってくるのは、そこまでです。
僕自身も顔を出していません。人前で話すこともしないし、通話もしません。人見知りで、電話も苦手です。今も変わっていません。それでも、伝えたいことは文字にして出しています。
だから、撮った動画を消した日があったとしても、それで何かが終わったわけではないと思っています。
あの30秒で話そうとしていた中身は、動画を消しても残っています。次は、撮らずに文字にしてみてください。




















