第6話|で、これが何だ──百万円を、机に置いた日

第6話
凡人再起動ログ
全10話

月の通帳に、見たことのない桁の数字が並ぶようになって、僕が最初に思ったことは、これだ。

「で、これ、何に使うんだ?」

あれだけ金が欲しくて、会社を辞めて、ゼロの夜を何ヶ月もくぐって、やっと手に入れた。なのに、入った瞬間に出てきたのが、その間抜けな問いだった。なぜ、稼げたのに虚しかったのか。独立して数年経った、三十代の半ばの話だ。

夜の机に置かれた百万円の札束と銀行の封筒

01数字が、秒で跳ねる夜

きっかけは、一本のキーワードだった。僕が作ったサイトが、ある日、検索の一番上に出た。それも、誰もが取りたがる、競争の激しいキーワードで。

ブラウザを開いて、検索窓に同じ文字を打つ。エンターを押すと、画面が一瞬白くなって、数秒で結果が戻ってくる。一番上。広告の小さい文字の、その下。青いタイトルが、見慣れたはずなのに、一番上にあると別物に見えた。

俺だ。一番上、俺だ。

アクセス解析を開いた。あの、通帳がぴくりとも動かなかった夜は、もう遠い。スマホが当たり前になって、ブログを書く人間が爆発的に増えていた頃だ。

リアルタイムの数字が、秒で増える。10が20になる。20が40になる。40が80になる。止まらない。今この瞬間、顔も知らない誰かが、何十人も、僕の書いた文字の前にいる。

椅子に座ったまま、手が震えた。マウスが揺れる。勝手に笑いが出る。

俺は天才だ。最強だ。この位置、誰も取れない。

何回も検索した。何回見ても、一番上に僕がいた。そのたびに、脳の中で何かがドバドバ出ている音がした気がした。更新を押す。数字が増えている。また押す。また増えている。世界の仕組みを、僕だけが解いた気がした。あの夜の高揚を、今でも体は覚えている。

02鏡の中の、寝不足の目

絶頂にいると、人は鏡を見なくなる。たまに洗面所で目が合うと、そこにいるのは寝不足の男だった。目の下が暗い。唇が薄く割れている。剃り残しの髭が、まばらに残っている。

誰だ、これ。
……俺は、特別だ。あいつらとは、違う。

机の上には、開いていない封筒が積んであった。角が揃っていない。請求書みたいな色をしていた。見れば、たぶん、嫌な数字が書いてある。だから、見なかった。

見なければ、ない。

スマホに残高の通知が出ても、一瞬だけ見て、すぐ閉じた。閉じると、胸の奥が少し軽くなる。その軽くなる感じが、本当は怖かった。

僕が信じていたのは、売上の数字だけだった。画面の中のその数字だけが、はっきり強く見えて、ほかの全部が薄かった。「この数字が、俺の価値を証明している」。そう思い込んでいた。

今ならわかる。あれは、麻酔だった。痛みを感じなくするための、よくできた麻酔だ。

03百万円を、机に置いた

そんな日々の、ある朝のことだ。累計でいくら稼いだか、もう自分でも追えなくなっていた頃。桁の話は、ここではどうでもいい。大事なのは、その日、僕が初めて「現金の百万円」を、銀行から手元に取り寄せた朝だった。

銀行の封筒は、薄い茶色だった。開ける。紙が擦れる、パリッという小さい音。中から、輪ゴムで止まった束が出てきた。札の端が揃っている。角が立っている。指で挟むと、紙が硬くて、反発がある。インクの匂いが、鼻の近くまで来る。少し甘い、紙と油の匂い。

これが、欲しかった。これが、欲しかったはずだ。

机に置いた。トン、と鈍い音がした。木の上に、紙の塊が乗っている。その感触が、音だけで、はっきりと伝わってきた。一枚ずつめくる。シャッ、シャッと、擦れる音が続く。同じ顔が、何枚も並ぶ。そして、来た。

で、これが何だ。

数分眺めて、それしか出てこなかった。部屋の音が、急に薄くなった。パソコンのファンの音が遠い。机の上の、その束だけが近い。嬉しいでも、満たされたでも、ない。机の上に、紙の束がある。それだけだった。紙切れだ。ただの、紙切れ。

あの、通帳がゼロだった夜に、喉から手が出るほど欲しかったもの。それが今、目の前にある。なのに、内側の空洞が、一ミリも埋まらない。背もたれに体を預けると、背中が冷たかった。

その夜、わかったこと

お金は、ゴールじゃなかった。燃料だ。ただの、燃料だ。
走る先を決めていない人間が、燃料だけ山ほど積んでも、その場でアイドリングしているだけなんだ。僕は満タンのタンクを抱えたまま、どこにも向かっていなかった。

04君の机にも、たぶん札束はある

百万円の札束なんて、自分には縁がない話だと思っただろうか。でも、これは金の話だけじゃない。

君にも、形は違えど、机に置いた瞬間に「で、これが何だ」になる数字が、あるはずだ。いいねの数。フォロワー。仕事の評価や、年に一度の査定でつく、あのランク。増えると、跳ね上がるように嬉しい。減ると、自分そのものが目減りした気がする。

僕が札束に求めていたものと、それは同じだ。数字が増えれば、自分の中身まで増える気がする。だから、もっと増やそうとして、走り続ける。でも、思い出してほしい。僕は、一番大きい数字を手にして、机の前で空っぽだった。桁が増えても、あの空洞は、びくともしなかった。

机の上=燃料

札束・いいね・フォロワー
査定でつく、あのランク

=満タンでも、動けない
VS
机の外側=行き先

この数字を伸ばした先に、
僕は何を見たいんだろう

=満ちるものは、こっち

数字は、燃料にはなる。けれど、行き先にはならない。燃料がいくらあっても、どこへ行くか決めていない人間は、その場から動けないんだ。

05数字の外側に、何を置くか

夜明け前、机から目を上げて窓の外を見る男の後ろ姿

机に百万円を置いて虚しくなったあの日、僕は答えを持っていなかった。「じゃあ何のために稼ぐのか」「数字の外側に何を置けばいいのか」。問いだけが残って、答えは空っぽのまま。だから僕は、その空洞を、もっと数字で埋めようとした。もっと順位を上げて、もっと桁を増やせば、いつか満ちると思って。

ひとつだけ、当時の僕が見ないようにしていた事実がある。検索の順位を決めていたのは、僕じゃなかった、ということだ。僕が必死に守っていたその一番上の場所は、もっと大きな、向こう側の何かが決めていた。僕は、自分の土地だと思って踊っていたその場所を、本当は借りていただけだった。その話は、次にする。

いいねやフォロワーの数だけで自分を採点して、増えても満たされない夜の中にいるなら

一度だけ、机の上の数字から目を上げて、自分に聞いてみてほしい。「この数字を伸ばした先に、僕は何を見たいんだろう」と。すぐに答えは出なくていい。僕も、あの夜には答えを持っていなかった。ずいぶん回り道をして、今やっと、その外側が少しだけ見えてきた人間だ。

増えても減っても揺るがない、君だけの物差し。それは、机の数字の外側にしかない。
机の上の数字を、ちょっとだけ脇にどけて。その先を、一緒に、ゆっくり覗いてみよう。