第1話|満員電車のあの違和感、正しいのは「君」の方だ

第1話
凡人再起動ログ
全10話

背中を押される。胸も押される。息を吸う場所が、どこにもない。

会社に入って最初の頃。僕は毎朝、同じ電車に乗っていた。ホームの床に引かれた線。そこに人が並ぶ。みんな同じ方向を向いている。僕も並ぶ。同じ方向を向く。

そうして詰め込まれて揺られているとき、頭の隅でふっと声がした。

これ、移動じゃない。運ばれてるだけだ。

そう思った瞬間、自分でもびっくりした。なんで急に、そんなことを考えたのか。当時の僕には、うまく説明できなかった。でも、その違和感は、あとになって、むしろ正しかったんだとわかる。おかしかったのは、僕の体じゃない。僕が毎朝立っていた、あの場所のほうだった。

01牛や豚と、何が違う?

一度そう思ったら、もう戻れなかった。朝、同じ時間に、同じ顔ぶれが、同じ方向へ詰め込まれる。これ、テレビで見たやつだ。牛や豚をトラックの荷台に隙間なく積んで、どこかへ運んでいく、あの映像。ぎゅうぎゅうに押されて、揺られて、ただ運ばれていく。

僕らと、何が違うんだろう。行き先を、自分で決めていない。並べと言われた線に並び、開いたドアに吸い込まれ、降りろと言われた駅で吐き出される。体は動いている。でも、選んでいない。

ふしぎなのは、牛は抵抗しないってことだ。自分がどこへ運ばれるのか、知らないからだ。僕は、行き先を知っていた。会社だってことは、わかっていた。知っていて、それでも抵抗しなかった。そっちのほうが、よっぽど薄ら寒い話だと、今ならわかる。

あれ、僕、なんでここにいるんだっけ。

君にも、ふっと真顔になる一瞬があるはずだ。いつもなら何も考えずやり過ごす景色が、ある日とつぜん、知らない景色に見える。理由のない残業の夜にも、ふっと来る。あの一瞬。あれを、僕は毎朝、満員電車で食らっていた。

朝の満員電車に詰め込まれた乗客たち

02窓に、知らない男がいた

押されて、窓のほうへ体が寄る。ガラスが頬のすぐ横にある。冷たい。そこに、顔が映っていた。目は開いている。なのに、何も見ていない。眉も動かない。口も動かない。誰の顔か、一瞬わからなかった。

誰だ、これ。

死んだ魚みたいな目だった。水揚げされて時間が経った、あの濁った目。あれが、僕だった。

レールの継ぎ目を踏むたび、音がする。ガタン、ガタン。一定の間隔で。最初はただの揺れの音だ。でも、あの朝は違って聞こえた。カウントダウンだ。僕の人生の、残り時間の。

ガタンと鳴るたびに、頭の中が少しだけ空く。次のガタンまでに何か考えようとして、考えられない。体は動いているのに、魂が入っていない。そういう感覚だけが、はっきりあった。つり革が揺れて、プラスチックの擦れる音がする。頭の上では、中吊りの紙広告がパタパタ鳴っている。なのに、自分のことだけが、ひどく遠かった。

たぶん君も、心当たりがあると思う。足だけが勝手に、いつものホームの線の上に立っている。あの、自分の足が自分のものじゃないみたいな朝の感じ。あれは、君が鈍いからじゃない。むしろ、まだちゃんと感じ取れている、ということなんだ。

03「仕方ない」で、フタをした

降りる駅が近づくと、車内がざわつく。ホームに足をつけると、足の裏がじんじんした。空気は冷たいのに、服の中だけ、じっとり湿っている。そこで僕は、どうしたか。何もしなかった。

「みんなこうしてる」「社会人ってこういうものだ」「仕方ない」。そう自分に言い聞かせて、あの違和感に、そっとフタをした。

会社に行けば、行ったで理不尽が待っている。上司のミスなのに、なぜか僕が取引先に頭を下げに行く。受話器を握って「申し訳ございません」と言いながら、胸の奥が、すっと冷えていく。それも、「仕方ない」で飲み込んだ。

君にも、覚えがないか。自分のせいじゃないのに、頭を下げた朝。言い返せなかった会議室。形は違っても、あの飲み込んだ感じには、心当たりがあるんじゃないか。

当時の僕は思っていた。違和感を覚える自分のほうが、未熟で、わがままで、間違っているんだと。でも、あの「仕方ない」は、優しい言葉の顔をして、自分で自分にかけた呪いだった。

唱えるたびに、自分の人生の手綱が、少しずつ自分以外の誰かに移っていく。それなのに当時の僕は、上手に飲み込めるようになった自分を、ちょっと誇らしくさえ思っていた。一段、大人になったんだと。ほんとうは、感覚を一枚ずつ削って、麻痺させていただけだったのに。

04頭は嘘をつく。でも、体は嘘をつかない

長い時間が経って、ようやくわかったことがある。頭は、平気で嘘をつく。「これでいい」「みんなと同じなら安心だ」「考えるな、慣れろ」。頭は、その場をしのぐために、いくらでも都合のいい理屈をこしらえる。

でも、体は嘘をつかない。

アタマ(理屈)

これでいい
みんなと同じなら安心
考えるな、慣れろ

=平気で嘘をつく
VS
カラダ(本音)

息が浅い・胸が重い
日曜の夜が沈む
朝、足が動かない

=嘘をつかない

息が浅くなる。胸が重い。日曜の夜になると、理由もなく気持ちがずんと沈む。朝、布団から出る足が、なぜか動かない。あれは、ただの不調でも、怠けでもなかった。君の中の羅針盤の針が、必死で揺れている合図なんだ。「こっちじゃない」と。「この方向は、君の生きる場所じゃない」と。

頭は「気のせいだ」と握りつぶそうとする。でも、針が指しているほうが、いつだって正しい。

満員電車の中だけじゃない。中身のない会議の途中でも、エレベーターの鏡に映った顔を見たときでもいい。ふっと込み上げてくる、あの小さな違和感。あれは弱さでも甘えでもない。君の中で、まだ死んでいない部分が、生きている証拠だ。

05無視し続けた先で、僕は一度こわれた

僕は、その針を無視し続けた。「仕方ない」を何年も重ねた先で、心と体を、一度こわした。そこで何があったかは、ここでは描かない。ただ、針を握りつぶし続けると、人はちゃんと壊れる。それだけは、身をもって知っている。

だからこそ、君には、針がまだ小さく揺れている今のうちに、気づいてほしい。無視し続けると、ある日とつぜん、体のほうが先に音を上げる。頭が「まだいける」と言っても、体は、もうとっくに知っているんだ。

06正しいのは、君の方だ

あの満員電車に乗らなくなった、静かな朝

今、僕はもうあの電車に乗っていない。朝、あの線に並ぶこともない。窓に映る死んだ目を見て、慌てて目を逸らすこともない。特別な才能があったわけじゃない。運がよかったわけでもない。ただ、あの朝の「これ、移動じゃない」を、最後にちゃんと拾った。始まりは、それだけだった。

だから、これは過去を恨む話じゃない。あの違和感が、僕をここまで連れてきてくれた、という話だ。

もし君が今、満員電車で「これ、移動じゃない」と感じているなら。職場で、行列の中で、ふと真顔になる瞬間があるなら。それを、未熟だと思わないでほしい。「贅沢な悩みだ」「みんな我慢してる」と、自分で押し殺さなくていい。

間違っているのは、君じゃない。正しいのは、君の方だ。おかしいのは、それを「これが普通だろ」と笑って飲み込ませてくる、あの空気のほうなんだ。

頭が「気のせい」とごまかす、その小さな違和感を

今日、手帳の隅にでも、一行だけ書き留めておいてほしい。「今日、どこで真顔になったか」と。それが、君の羅針盤の針が指した方角だ。答えは、まだ出さなくていい。名前もつけなくていい。ただ、なかったことにだけは、しないでくれ。

慌てなくていい。すぐに会社を辞めろ、なんて乱暴なことも言わない。まだ気づけた君なら、ここから向きを変えられる。その小さな針を、これから一緒に、ゆっくり読んでいこう。