第3話|「逃げる」のは、負けじゃない

第3話
凡人再起動ログ
全10話

「逃げる」って言葉に、君はどんなイメージを持ってる?

たぶん、いいイメージじゃないはずだ。卑怯とか、負けとか、根性なしとか。

僕も、ずっとそう思っていた。だから、限界まで逃げなかった。そして、壊れた。

今、何かに押しつぶされそうな君に、どうしても伝えたいことがある。

朝、布団から動けず白い天井を見つめる

01ある朝、体が動かなくなった

これは僕が、30になった頃の話。ある朝、目が覚めて、天井を見た。起きなきゃ、と思った。思っただけだった。

重いとか、だるいとか、そういう次元じゃない。腕を上げようとする。上がらない。指に力を入れようとする。入れ方が、わからない。息はしている。目も開いている。でも、それだけ。

部屋が、やけに静かだった。時計の音も、外の車の音も、聞こえない。あるはずなのに、入ってこない。

会社に、行かなきゃ。
頭ではわかってる。でも、体がついてこない。

怠けてるのか、と自分を責めた。違う、と思った。怠けるっていうのは、動けるのに動かないことだ。僕は、動けない。その違いを、自分にすら説明できなかった。

壊れた。
俺の人生、壊れた。

02いちばんきつかったのは、自分を責める声

会社は休んだ。一日。二日。気づけば、一週間が経っていた。罪悪感だけが、布団の中で膨らんでいく。

「みんな、働いてるのに」「俺だけ、何をやってるんだ」

その声が、いちばんきつかった。体が動かない苦しさより、自分を責める声のほうが、ずっと痛かった。

布団の中で、スマホの着信履歴を見ては、画面を消す。会社からの電話が、何件も残っていた。出なきゃ、と思う。でも、出られない。出たら、何かを説明しなきゃいけない。その「説明する」ことすら、もう、できなかった。

03深夜3時、指が探していたもの

そして、ある夜のことだ。眠れないまま、布団の中でスマホを見ていた。深夜の3時。画面の青い光だけが、僕の顔を照らしていた。

指が、勝手に動いた。打ち込んだ言葉は、「死に方」じゃなかった。

「うつ病 休職 方法」「会社 行きたくない 限界」

打ちながら、ハッとした。僕は、死に方じゃなく、助かり方を探していた。

まだ、生きたいんだ。
俺は、まだ生きたいんだ。

検索結果の中に、見たことのない言葉があった。「休職」「診断書」「傷病手当」。

会社の中では「休む=悪」「休む=終わり」だった。でも、一歩外に出れば、そこには「休むための仕組み」が、ちゃんと用意されていた。暗闇の中に、小さな非常口のランプが灯った気がした。

04震える指で、重い扉を開けた

翌週、僕は、ある雑居ビルの3階に立っていた。ドアの上のプレートには、「メンタルクリニック」と書いてある。

足が、すくんだ。ここに入ったら、もう「普通」には戻れない気がした。「精神科に行った人間」というレッテルが、一生ついて回る気がした。

ドアノブに手を伸ばす。指が、震えていた。金属が、冷たかった。

ここに入ったら、終わりだ。

でも、と思った。このまま会社に戻れば、僕は確実に壊れる。二度と戻れないところまで。僕は、息を吸って、ドアノブを回した。カチッ、と音がした。消毒液の匂いが、流れ出してきた。

中に入ると、待合室には、数人の人がいた。僕が想像していたような「こわい人たち」は、どこにもいなかった。ただ、疲れた顔をした、どこにでもいる普通の人たちだった。

ああ、僕だけじゃないんだ、と思った。ここでは、誰も僕を怒鳴らない。「もっと頑張れ」と、急かさない。それだけのことで、涙が出そうになった。

05あれは、逃げじゃなかった

あの日、ドアを開けた僕は、「逃げた」と思っていた。社会から逃げた。会社から逃げた。負けたんだ、と。

でも、13年経った今ならわかる。

あれは、逃げじゃない。戦略的撤退だ。

サバンナで、ライオンに出くわしたとする。そこで「逃げたら負けだ」と素手で立ち向かう人間を、誰も勇者とは呼ばない。全力で逃げる。それが、いちばん賢い。命さえあれば、また別の場所で戦える。

耐え続ける

「逃げるな」「石の上にも三年」
その場に留まり、すり減る

=ゆっくりした自滅
VS
撤退する

勝てない戦場から、一度退く
命を守り、力を蓄える

=生き延びる判断

——でも、頭でわかっても、逃げられない。「逃げるな」「最後までやり遂げろ」。僕らは小さい頃から、そう刷り込まれて育つ。でも、その「逃げるな」を決めたのは、誰だ。君の人生に、責任を取ってくれる人なのか。

それに、あの朝、体が動かなくなったこと。あれも怠けじゃなかった。頭は平気で嘘をつく。「まだいける」「みんな我慢してる」って。でも、体は嘘をつかない。体のストライキは、正しかった。

診察室で、医者が言った

「あなたは、誰よりも真面目に生きてきたんですね。でも、その真面目さが、今は自分を傷つける刃物になっています。もう、十分です。少し、休みましょう」

その瞬間、僕は泣いた。手渡された一枚の診断書は、「会社員失格」の烙印じゃなかった。理不尽から自分を守る、初めての「盾」だった。たった一枚の紙が、僕に「堂々と休んでいい」という許可をくれた。

暗い部屋から光の差す戸口へ歩く後ろ姿

06今、しんどい君へ

もし君が今、朝、布団から出られないなら。会社に行こうとすると、涙が出たり、吐き気がしたりするなら。聞いてほしい。

それは、君が弱いからじゃない。君の体が、君を守るために、必死でブレーキを踏んでいるんだ。そのブレーキを、責めないでほしい。それは、君の命を守っている証拠だから。

逃げていい。その言葉に、罪悪感を持たなくていい。勝てない場所から、撤退するだけだ。助けを求めるのは、生きようとする意志の証明。いちばんの勇気だ。

今日、本当に苦しいなら

無理に頑張らなくていい。ただ、「休む」という選択肢が、この世界にちゃんとあることだけ、覚えておいてほしい。病院でもいい。誰かへの一本の電話でもいい。非常口は、必ずどこかにある。

大丈夫。君が思っているより、世界はずっと「休んでいい」と言っている。
その扉を開ける勇気を、一緒に持とう。僕も、震える指で開けたから。