第8話|「他の人じゃダメなんです」と言われた日、僕の事業が始まった

第8話
凡人再起動ログ
全10話

借金を返していた頃の話だ。まだ出口は見えていなかった。朝起きて、返済の数字を眺めて、また働く。そのくり返しの、ある夕方だった。

一通のメッセージが届いた。「あなたにお願いしたい。他の人じゃ、ダメなんです」。それを読んだ瞬間、胸の奥の、ずっと固まっていた何かが、ぐっと動いた。

なぜ、僕に。差し出せる実績なんて、もう何ひとつ残っていないのに。今の僕の事業は、あの一行から始まった。

01鎧が、全部はがれていた

借金を返していた頃の僕は、見栄も、肩書きも、全部はぎ取られた状態だった。それまでの僕は、鎧を着込んでいた。「稼いでいる人間」「結果を出した男」。そういう鎧だ。いい車に乗って、いい店で奢って、それで自分が大きくなった気でいた。

その車も、もう手放したあとだった。鍵を渡したとき、自分の値打ちまで一緒に渡した気がした。その鎧が、底まで落ちたときに、一枚残らずはがれた。

最初は、ただ恥ずかしかった。裸で街を歩かされているような気分だった。人に会うのが嫌で、しばらく顔を伏せて歩いていた。「あいつ、落ちぶれたな」。そう思われている気がしていた。

ところが、何ヶ月か経った頃、おかしなことに気づいた。楽なのだ。もう、「すごい人」を演じる相手がいない。背伸びして見せる相手も、見栄を張る相手も、どこにもいない。ただの僕として、目の前の人と、まっすぐ話せばいい。

それだけのことが、こんなに肩から力を抜いてくれるのか、と思った。恥だと思っていたものが、いつのまにか、僕を自由にしていた。

02凍った血が、動いた

夕暮れの窓辺で、スマホに届いたメッセージを見つめる手元

そんなときに、あのメッセージが届いた。かつて、仕事で少しだけ関わったことのある人からだった。スマホの画面に、その文字が並んでいた。

あなたにお願いしたいんです。
他の人じゃ、ダメなんです。

最初は、何かの間違いだと思った。人違いか、社交辞令か。そのどちらかだろう、と。僕は、画面を見たまま、しばらく動けなかった。もう一度、頭から読み返した。文字は、変わらなかった。画面を持つ手が、少し震えていた。

派手な数字も、立派な肩書きも、僕にはもう何もない。差し出せる実績なんて、とっくに地面ごと消えていた。それなのに、この人は、僕を名指ししている。たくさんいる中の、ほかの誰でもない、僕を。

胸の奥が、ゆっくり熱くなっていった。「俺はもう終わった人間だ」と、思い込んでいた。その固く凍っていた血の塊が、内側から溶けていくのが分かった。

——選ばれた。

その三文字が、腹の底に落ちてきたとき、僕は息を、深く吸い直していた。戸惑いと、嬉しさが、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。なぜ僕なんだ。それでも消したくない熱。その二つが、胸の同じ場所で鳴っていた。

03求められていたのは、肩書きじゃなかった

ここで、君に聞きたい。君にも、覚えがないだろうか。仕事でも、家族でも、友達でもいい。「君に頼みたい」「君がいい」と、名指しで言われた瞬間が。

そのとき、嬉しかったのは、君の肩書きが評価されたからじゃないはずだ。君という人間が、まるごと選ばれたからだ。僕も、同じだった。

少し落ち着いてから、僕はその人に聞いてみた。なぜ、僕だったんですか、と。返ってきた答えは、僕が想像していたものと、まるで違った。

すごいスキルがあるから、じゃない。派手な実績があるから、でもない。その人が求めていたのは、僕の物の見方だった。僕の言葉の選び方だった。困っている人を、放っておけない。その面倒くさい性分だった。要するに、僕という人間そのものだった。

それまでの僕は、「何ができるか」で選ばれてきたつもりでいた。でも、あのとき選ばれたのは、「何ができるか」じゃない。「誰であるか」だった。この二つは、似ているようで、まるで違う。すとんと腹に落ちて、初めて分かった。

04比べられない場所が、あった

「何ができるか」で選ばれている間は、ずっと落ち着かなかった。いつでも、比べられるからだ。もっと速い人。もっと安い人。もっと多くの機能を並べられる人。そういう誰かが現れた瞬間に、僕は捨てられる側だった。

白状すると、機能やスペックで勝とうとして、いちばん長くあの土俵に立っていたのは、ほかでもない僕自身だ。他人より一歩でも上に立とうとして、機能と値段で殴り合う。勝っても、すぐ次の相手が来る。抜かれたら、終わり。走り続けないと、振り落とされる。終わりのない消耗戦だ。

「もっと上を」と煽ってくるその声は、外から来ているようで、いつのまにか自分の頭の中にも住みついていた。

何ができるか

スキル・実績・速さ・安さ

=もっと上が来たら捨てられる
VS
誰であるか

物の見方・言葉・人間性

=代わりがいない・土俵の外

ところが、「誰であるか」で選ばれたとき、その消耗戦が、ふっと止まった。僕という人間に、比較対象はいない。もっと速い藍沢も、もっと安い藍沢も、この世にいないからだ。

奪われようがない。代わりがいない。それは、こういうことか、と思った。誰かがもっと安く来ても、関係ない。もっと上手い人が現れても、揺らがない。

「君がいい」と言われた仕事は、最初から、比べる土俵の外にあった。その場所に立ったときの、地に足がついた感覚を、僕は今でも覚えている。

05ここから、仕事が変わった

その一通から、僕の仕事は、静かに変わっていった。もっと速く、もっと安く、もっと高機能で勝とうとするのを、やめた。その土俵から、降りた。代わりに、「僕だからできること」だけで、目の前の人に向き合うようになった。

僕がくぐってきた地獄や、そこで見てきた景色。そして、僕にしか言えない言葉。それを、ただ正直に差し出す。すると、面白いことが起きた。向き合った人の事業が、人生が、少しずつ動き出した。数字を競っていた頃には、一度も味わえなかった手応えだった。

誰かと比べて勝った喜びじゃない。「あの夜、もう全部やめようと思っていました」。そう打ち明けてくれた人が、しばらくして、自分の言葉で前を向き始める。目の前のこの人が、昨日より少しだけ顔を上げた。ただ、その一点が、嬉しい。

今の僕の仕事

機能やスキルを教える仕事じゃなかった。
「この人だから」と選ばれる場所の、作り方を一緒に探す仕事だ。それが、今の僕がやっていることの、いちばん奥にある芯になった。

大きな話の続きは、また別のところでしよう。ここで君と確かめたいのは、原点が灯った。その一点でいい。

06君にしかない一行を、一緒に

朝日の中、土から芽吹いたばかりの双葉

機能やスペックで一番になろうと、消耗しなくていい。もっと速く、もっと安く、もっと上手く。その声に追われて走り続けても、いつか必ず、もっと上が現れる。その土俵の勝者は、永遠に決まらない。

でも、君が「君だから」と選ばれた瞬間は、誰にも奪えない。比べられないし、上書きもされない。君の中に、もうその種はある。

落ち込んだ夜に、たくさんの人じゃなく、なぜか君にだけ電話がかかってきたこと。家族の中で、なぜか君だけが任された役割。それは、君のスペックが一番だったから選ばれたんじゃない。君そのものが、まるごと求められていた。過去に一度でも「君がいい」と名指しされたことがあるなら、それが芽だ。

特別な才能なんて、いらない

僕も、地面ごと全部失った、あの裸の状態から、たった一通でそれに気づいた人間だ。君にしかない「この人だから」を、これから一緒に、ゆっくり見つけて育てていこう。偉そうに教える気はない。隣で一緒に探したいだけだ。

その芽は、思っているより、ちゃんと君の手の中にある。