ネットを開くと、だれかがだれかを訂正している場面に、まあまあの頻度で行き当たります。
読むと、訂正しているほうが正しいことが多いんです。少なくとも、横から眺めて「まあ、それはそうだよな」と感じる程度には筋が通っている。
なのに、訂正された側が「なるほど、そうか」と受け取って考えを改めた、という場面のほうは、ほとんど見た記憶がありません。無視されるか、言い返されるか、黙って離れていくか、だいたいそのどれかです。
正しさというのは、これほど効かないものなのか、と思います。
今日はその話をします。

なぜ効かないのか。理由は単純だと僕は思っていて、人は、内容が正しいかどうかで、相手を避けるかどうかを決めていないからです。
決めているのはもっと手前のところで、
「この人と関わったあと、自分の値打ちが下がった感じがしたかどうか」
これだけです。
下がった感じがしたら、避ける。言っていたことが正しかったかどうかは、その判断にほとんど関係しません。不快だったという事実のほうが先に立って、正誤の記憶はそのうしろに回る。
これは、相手が意地を張っているとか、幼稚だとか、そういう話ではありません。人間はそういうふうにできている、というだけの話です。
そう考えると、議論に勝つという行為が何なのかも、はっきりしてきます。
議論に勝つというのは、相手の値打ちを下げる行為と、ほとんど同じことです。「それは違います」「そこが分かっていません」。言い方をどれだけ丁寧に整えても、受け取る側の体験としては、自分の値打ちが目減りしていくプロセスです。
だから、言い負かした相手が、そのあとこちらの言うとおりに動いてくれる、ということはまず起きません。
議論に勝つと、正しさだけが手元に残ります。
相手は、もういない。
それでも人はやります。というより、意識していないとそっちに寄っていく。
なぜかというと、他人の値打ちを下げると、自分の値打ちが上がる気がするからです。
ここが、まるごと逆になっている。実際に起きるのは反対のことで、削りにいった側が魅力を失います。周りで見ている人は、削られたほうではなく、削ったほうを見て「ああ、そういう人なんだな」と静かに判断している。
しかも、これには順番があります。自分の値打ちの感覚が満たされていない人ほど、他人のそれを削りにいく。
値打ちの感覚というのは、口座の残高みたいなものです。自分の残高が足りていない人が、人の口座から引き落として埋めようとする。威張る、尊大に振る舞う、実績を並べてみせる。あれは足りている証拠ではなくて、足りていないことの現れです。
満たされている人は、そもそも人から引き落とす必要がありません。
ということは、反対側はどうなっているか。
他人の値打ちを上げられる人は、実はとても少ないのです。ほとんどの人が、まず自分の分を満たすので手一杯だからです。
つまり、そこは空いています。競争が薄い。
文章の世界でも同じことが起きていると思います。読んだあとに、自分の値打ちが少しだけ上がったような感じの残る文章は、探すとなかなか無い。多くは、読み終えたところで少し削られています。うまい文章ほどそうなっていたりする。
だから、削らないというだけで、けっこう残るのです。

……ここまで書いて、自分でも説教くさいなと思いました。あと、たぶん誤解されます。
じゃあ断定をやめて、当たりのやわらかい文章を書けという話か。
違います。ここははっきり言っておきたい。
断定はやめなくていい。むしろ、根拠を持って言い切れるところは、強く言い切ったほうがいい。歯切れの悪い文章は、そもそも最後まで読まれません。
変えるのは、強さではないのです。
削る先です。
同じ強さで言い切っても、刃の向きひとつで、結果がまるで変わります。
「そんなやり方をしている人は、うまくいきません」
これは、それをやっている読者本人を削っています。読んだ人は、値打ちを下げられた側に置かれる。しかも、内容が正しければ正しいほど、逃げ場がなくなる。逃げ場がないので、その場から離れます。書き手の言い分が正しかったことは、離れた理由にまったく影響しません。
「そのやり方でうまくいかないのは、こういう仕組みになっているからです」
こちらは、削っている先が仕組みのほうです。断定の強さは、一ミリも下がっていません。
ただ、読んだ人の立ち位置が変わります。裁かれた側ではなく、書き手の隣に並んで、同じ仕組みを一緒に見ている側になる。
言っている中身は同じなのに、片方は敵をつくり、片方は仲間をつくる。
正しさを薄める必要はありません。当てる先を、人から構造にずらすだけです。
もう少し手前の、日常的な話もしておきます。
相手の値打ちを上げるのに、お金は要らないのです。名前を覚えていること。その人が誇りに思っているところを、こちらもちゃんと認めていると分かる形で扱うこと。そして、頼ること。
最後のは、意外に思われるかもしれません。人に助けを求めるのは、自分の値打ちを差し出す行為に見えます。でも受け取る側からすると、この人は自分を選んで頼ってきた、という話になる。値打ちが上がるのは、頼られたほうです。
発信でも同じで、教える一方の書き手より、ときどきちゃんと人に聞く書き手のほうが、長く読まれるのだと思います。
正直に言えば、これをテクニックとしてやると、たぶんバレます。相手を持ち上げる目的で名前を呼んだり頼ったりしても、それは結局、こちらの残高を増やしにいく動きなので、どこかに匂いが出る。
だから、覚えておくのは一行でいいと思っています。
正しさは、届いてはじめて正しさとして働く。
届く前に相手を削ってしまえば、その正しさは、相手の人生の中で一度も使われないまま終わります。せっかく正しいのに、それはもったいない話だなと思うわけです。
強く書くのはやめなくていい。当てる先だけ、人から構造にずらしてみてください。

















