凡人再起動ログ
全10話
全財産が画面の上で「0」になった夜、僕が最初に考えたのは「痛いのは嫌だな」だった。
死ぬとか、人生終わりだとか、そんな立派なことじゃない。ただ、痛いのは怖い。それだけだった。
借金が六百万に確定して、残高がゼロで、もう終わったはずの夜に、頭をよぎったのがそれだ。かっこ悪い。でも、それが本当だった。あれだけ稼いだのに、その金を、僕は自分の手で全部ゼロにした。今日は、その夜の話だ。
01右肩上がりの線が、崖から落ちた
検索の順位を、僕は自分の力だと思い込んでいた。違った。借りていただけだった。
ある朝、解析の画面を開いたら、何ヶ月も右肩上がりだった線が、崖になっていた。ある一点から、まっすぐ下に落ちている。垂直に。検索の順位が、全部飛んでいた。一番上に置いていたページが、丸ごと圏外に消えていた。
Googleの仕組みが、僕の知らないところで変わった。たった、それだけのことだ。収入は、一晩で消えた。手のひらに、じわっと脂汗がにじんだのを、今でも覚えている。
自分の城だと思っていた。違った。僕は、他人の土地に城を建てていただけだった。地面ごと取り上げられたら、城がどれだけ立派でも、一緒に消える。そんな当たり前のことに、全部失ってから気づいた。
今なら笑って言える。土地は借りるな、買え、と。でもあの朝の僕は、その一言を、誰からも聞いていなかった。
02取り返そうとして、もっと沈んだ
消えた収入を、取り返そうとした。ここが、本当の地獄の入口だった。
焦って、投資に手を出した。バイナリーオプション。数十秒先に上がるか下がるか、それだけを当てる、シンプルなやつだ。最初は、少し勝った。「これで取り返せる」と思った。取り返そうとするほど、賭ける額が大きくなる。そして、取り返そうとするほど、沈んでいった。
ここで、君に橋を架けたい。全財産を投資で溶かす経験なんて、自分には縁がない、と思っただろうか。でも、これは金額の話じゃない。
君にも、失くしたものを取り返そうとして、無理をした夜があるはずだ。別れた相手に、もう一度だけと連絡してしまった夜。落とした信用を取り戻そうと、できない約束を重ねた朝。形は違っても、取り返そうとするほど深みにはまる、あの感覚に覚えがあるはずだ。
僕も、同じだった。取り返したい一心で、自分を、もっと深い穴に突き落としていった。
03カチリ、という音
深夜だった。部屋は暗くて、モニターの青い光だけが、僕の顔を照らしていた。口の中がカラカラに乾いていた。
そう自分に言い聞かせて、マウスの上に指を置いた。クリックした。カチリ、と乾いた音がした。それだけだ。たった、それだけの音だった。
負けた。その一回で、僕の負債は、六百万に確定した。不景気のせいでも、検索エンジンのせいでもない。誰かに騙されたわけでも、奪われたわけでもない。
俺が、俺の手で、俺を壊した。
あのクリックの音を、僕は今でも覚えている。書いている今も、指の先が、うっすら冷たくなる。
04世界から、音が消えた

画面に「残高 0円」と出ていた。それを見た瞬間、世界からプツンと音が消えた。パソコンのファンの音も、外を走る車の音も、自分の呼吸の音も、全部遠い。誰かが、世界のボリュームを、いきなりゼロまで絞ったみたいだった。
指先の感覚も、なくなっていた。冷たいのは分かるのに、それが遠くの誰かの指みたいだった。ただ、心臓だけが、嫌なリズムで鳴っていた。速くもなく、遅くもなく、ただ重く、トク、トク、と。
悲しいんでも、悔しいんでもない。泣くほどの力も、もう残っていない。ただ、空っぽだった。虚無だ。夜が明けるまで、僕はその椅子に座ったまま、ほとんど動けなかった。
頭の奥で、声がした。世間の声だ。
その声に、僕は飲まれかけた。失敗は恥だ。だから隠せ。誰にも言うな。外から眺めて言っているんじゃない。当事者として、その恥に、首まで浸かっていた。
冒頭の「痛いのは嫌だな」は、このすぐ後に浮かんだ言葉だ。そこまで追い詰められていた。ここが、僕の人生の、一番底だった。
05鏡の前で、生きているかを確かめた
翌朝、洗面所に立った。鏡の中に、土気色の顔の男がいた。目は血走って、唇は乾いて皮がめくれている。ひどい顔だ、と思った。
ぼんやりその顔を見ていて、なんとなく、手を上げてみた。上がった。指を、握ってみた。握れた。胸に、手を当ててみた。心臓が、鳴っていた。
金は、消えた。でも、僕は、まだここにいる。
その一言が、腹の底に、すとんと落ちた。僕はそれまで、失ったものばかり数えていた。失った金。失った順位。失った時間。失った信用。数えるほど、自分が小さくなっていく。
だから、逆をやってみた。残っているものを、数えた。
金・検索順位・時間・信用
命・動く体・働く頭
磨いた腕・細い縁
死んでいない命がある。動くこの体がある。まだ働く頭がある。それから、何年もかけて磨いてきた、文章を書く腕。誠実にやってきたぶんの、細い縁。それも、消えてはいなかった。数えてみたら、けっこう、残っていた。肩の力が、すっと抜けた。
君は今、失ったものばかりを数えていないか。できなかったこと、間に合わなかったこと、手からこぼれていったもの。それを数えるほど、足が止まる。でも、君の手元にも、まだ残っているものが必ずある。
僕が鏡の前で気づいたのは、ひとつだ。ゼロになったんじゃない。余計なものが削ぎ落とされて、身軽になっただけだ。
06半額シールを、待っていた
そこからの暮らしは、笑えるくらい貧しかった。夜のスーパー。惣菜の棚の前に立って、店員さんが半額シールを貼りに来るのを待つ。貼られた瞬間に、サッと手を伸ばす。端っこが少し焦げたコロッケ。
情けない話だろう。あれだけの金を動かしていた人間が、数十円の値引きを待っている。でも、不思議なもので、あの半額のコロッケが、びっくりするほど旨かった。腹が減っていたからか、もう失うものがなくて気が楽だったからか。たぶん、両方だ。
その惨めさは、湿っぽくはならなかった。むしろ、腹の奥で、小さな火がついた。絶対に、ここから這い上がる。このコロッケを笑い話にできる日まで、絶対にやめない、と。惣菜の値引きが、その火種だった。
財産はゼロでも、腕は残っていた。ゼロからじゃない。削ぎ落とされた分だけ身軽な状態から、僕はもう一度歩き出した。
07赤ペンで、横線を引く

机の壁に、返済リストを貼った。借りた先と、金額が並んでいる。最初に貼った日は、めまいがした。数字が多すぎて、いつ終わるのか見当もつかない。でも、やることは決めた。一件返すたびに、その行に、赤ペンでキュッと横線を引く。
最初の一本を引いた日のことは、覚えている。たった一行だ。全体から見たら、ほんの少し。それでも、線を引いた瞬間、ほんの少しだけ、肩が軽くなった。二本目。三本目。膨大に見えた数字が、一本ずつ、線で消えていく。
そのうち、おかしなことが起きた。あれほど苦痛だった返済が、ゲームみたいになってきたんだ。次はどの行を消せるか。今月はあと何本いけるか。ハイスコアを更新するみたいな気持ちで、線を引いていた。
どんなに大きな地獄でも、分解して、目に見えるようにして、一つずつ潰していけば、歩き通せる。
頭の中で「六百万」と丸ごと抱えていたら、たぶん潰れていた。壁に貼って、一行ずつにしたから、僕は歩けた。
返済が、回り始めた。ここまで来るのに、何年もかかった。その先の話は、また別の機会にしよう。
08失敗は、隠さなくていい
ここまで読んでくれた君に、最後に渡したいものがある。たぶん君は、全財産を失ったことはないだろう。でも、こんな夜なら、知っているはずだ。
何かに失敗して、それを「恥」だと思って、誰にも言えずに隠した夜。あの「もう終わった」という感覚は、僕のあの夜と、地続きだ。
だから、これだけは言わせてほしい。失敗は、恥じゃない。「失敗=恥」は、世間が勝手に押したスタンプにすぎない。僕自身、あの残高ゼロの夜、そのスタンプに飲まれかけた側だ。だから外から偉そうに言う気はない。ただ、そのスタンプを、自分の額に貼ったままにしておく必要はない。
視点をひとつ、ずらすだけだ。苦しいとき、人はどうしても、失ったものを数えてしまう。失った金、失った時間、失ったチャンス。数えるほど、自分が小さくなる。だから、逆を数えよう。動く体がある。まだ働く頭がある。今日まで君が積み上げてきたものは、思っているより、ちゃんと残っている。息をしているなら、それだけで、もう、いくつも残っている。
ゼロは、終わりじゃない。余計なものが削ぎ落とされて、身軽になっただけだ。その身軽な体で、最初の一歩を踏み出してみよう。赤ペンで、最初の一本を引くみたいに。
そこから、一緒に、もう一度歩き出そう。僕も、あの半額の棚の前から歩き出した人間だ。だから、君が今どこにいても、置いていったりしない。
