窓の外では、朝の光がビル群を照らしている。
心地よい風が、少しだけ開けた窓から入ってきて、机の上の書類を揺らす。
現在、午前7時。
僕はいつものように、近くの公園を30分ほど散歩してから、コーヒーを淹れ、この文章を書いている。
静寂に包まれた部屋。
ここにあるのは、穏やかな「自由」だけだ。
13年前の今日。
僕は、死人のような顔をして、満員電車の湿気の中にいた。
ポケットの中の封筒が、心臓のように脈打っている気がした。
2012年6月28日、木曜日。
午前9時。
この封筒の中には、僕の会社員人生を終わらせる「爆弾」が入っている。
あるいは、僕の人生を再起動させる「鍵」が入っている。
あの朝、僕が震える手でポケットに入れていたのは、単なる診断書ではなかった。
それは、他人のルールで生きることを拒絶し、自分のルールで生きることを宣言するための、人生で初めて手にした「武器」だったのだと。
1. 前回のあらすじ — 救命ボートへの乗船
第9話で、君は僕が「精神科」という名の聖域に逃げ込む瞬間を見た。
社会的な敗北だと思っていたその場所は、意外にも温かく、僕の崩壊寸前の心を優しく受け止めてくれた。
医師から渡された「うつ状態につき、1ヶ月の休職を要する」という診断書。
それは、沈没しかけた船(会社)から脱出するための、唯一の救命ボートへのチケットだった。
だが、チケットを手に入れただけでは助からない。
それを船長(上司)に突きつけ、下船を認めさせなければならない。
それは、組織という巨大な怪物に対し、たった一人で「NO」を突きつける行為だ。
これまで「YES」しか言ってこなかった僕にとって、それはエベレストを素手で登るよりも恐ろしいミッションだった。
これから話すのは、その「撤退戦」の記録だ。
震える手で武器を握り、巨人に立ち向かった、あの日の記憶だ。
2. 決戦の朝 — 鉛のように重い靴
その日の朝は、奇妙なほど静かだった。
梅雨の晴れ間。空は突き抜けるように青く、蝉の声が遠くから聞こえていた。
空の青さが、これから処刑される囚人には不釣り合いなほど鮮やかで、それが逆に僕の神経を逆撫でした。
いつものようにスーツに腕を通す。
ワイシャツのボタンを留める指が、微かに震えている。
ネクタイを締める。首元が苦しい。まるで絞首刑のロープのようだ。
鏡を見る。
そこには、死人のような顔をした30歳の男が立っていた。
目の下の隈は深く、頬はこけ、肌は土気色をしている。
瞳には光がなく、ただ恐怖だけが濁った水のように溜まっている。
「今日で、終わる」
そう口に出してみたが、声が震えていた。
玄関を出る。革靴が、鉛でできているかのように重い。
一歩踏み出すたびに、アスファルトから「行くな」「戻れ」という信号が脳に送られてくるようだった。
重力係数がここだけ3倍になっているのではないかと思うほど、足が上がらない。
電車の中。
周りのサラリーマンたちが、いつも通りの「日常」を生きている。
スマホでニュースを見る人、居眠りをする人、英単語帳を開く人。
彼らは「会社に行く」という行為になんの疑問も抱いていないように見えた。
彼らが、別の世界の住人のように見えた。
いや、僕がもう、この世界の住人ではなくなってしまったのだ。
「次は、○○駅——」
アナウンスが無慈悲に目的地を告げる。
胃の奥がキュッと縮み上がる。
吐き気がする。
でも、吐くものなんて何もない。昨日の夜から、水しか飲んでいないのだから。
僕は今日、この「日常」というレールから、自ら飛び降りるのだ。
その恐怖と、微かな興奮が、胃の中で混ざり合って、強烈な不協和音を奏でていた。
ポケットの上から、封筒の厚みを確かめる。
中には、診断書と、昨夜震える手で書いた「休職届」。
何度も書き直して、ゴミ箱を紙くずだらけにして、ようやく書き上げた2枚の紙切れ。
この紙切れ2枚だけが、僕を守る唯一の盾であり、矛だった。
3. 執筆の理由 — 「逃げ」の定義を書き換える
なぜ、僕はこんな恥ずかしい過去を、傷口を広げるようにして詳細に書くのか。
それは、今まさに同じような封筒をポケットに入れて、駅のホームで震えている君に、伝えたいことがあるからだ。
「逃げる」ことへの罪悪感を、今すぐ捨ててほしい。
当時の僕は、休職することを「敵前逃亡」だと思っていた。
戦場(職場)から尻尾を巻いて逃げ出す、臆病者の選択だと。
日本の社会は、いつだって「逃げないこと」を美徳とする。
「最後までやり遂げろ」「責任を果たせ」「逃げるな」。
その言葉の呪縛は強力だ。僕たちは小学校の頃から、そうやってプログラミングされてきた。
だが、13年後の今、僕は違う定義を持っている。
休職とは、「逃げ」ではない。
「損切り(ロスカット)」だ。
投資の世界では、損失が拡大する前に、早めに損を確定させて撤退することを「損切り」と呼ぶ。
一流の投資家ほど、この損切りが早く、躊躇がない。
「これはダメだ」と判断したら、瞬時に切る。感情を挟まず、機械的に切る。
だからこそ、資金(命)を守り、次のチャンスで勝つことができる。
逆に、三流の投資家ほど「いつか回復するかもしれない」「ここで辞めたらもったいない」と決断を先延ばしにする。
そうしてズルズルと損失を拡大させ、最終的に全財産を失って退場する。
人生も同じだ。
ブラック企業、パワハラ上司、合わない環境。
そこで「いつか良くなるかも」「石の上にも三年だ」と耐え続けるのは、美徳ではない。
精神という二度と戻らない資産を溶かし続ける、愚行だ。
あの日の僕は、逃げたのではない。
これ以上の損失を防ぐために、勇気ある「損切り」を決断したのだ。
自分の人生というポートフォリオを守るために、不良債権(会社)を切り捨てたのだ。
もし君が今、「逃げたい」と思っているなら、それは君が弱いからではない。
君の脳が優秀な投資家として、「これ以上は危険だ」と警鐘を鳴らしているのだ。
その警鐘に従うことは、敗北ではない。高度な経営判断だ。
4. 逆転の思考 — ダークサイドの統合(Dark Side Integration)
この決断を後押ししたのは、皮肉にも、僕の中にあるドロドロとした「負の感情」だった。
恐怖、絶望、無力感。
それだけではない。
上司への憎悪。会社への復讐心。「今に見てろよ」という暗い情熱。
僕がどん底から這い上がる過程で学んだ重要な概念に、「ダークサイドの統合」というものがある。
多くの人は、綺麗な感情(ポジティブ)だけで動こうとする。
「感謝」や「希望」「成長」といった言葉だけで、人生を変えようとする。
だが、それでは爆発力が足りない。
特に、どん底から這い上がる時の初期衝動には、ロケットの打ち上げのような、莫大なエネルギーが必要だ。
その燃料として最も効率が良いのは、実は「怒り」や「悔しさ」といったダークサイドの感情なのだ。
あの時の僕は、無意識にこのダークサイドを燃料にしていた。
「このまま壊れて捨てられるのは御免だ」
「あいつ(上司)の思い通りにはさせない」
「絶対に生き延びて、いつか見返してやる」
「僕を使い捨てにしたことを、後悔させてやる」
そのどす黒い怒りが、恐怖で動かなくなった僕の足を、無理やり前へと進ませていた。
もし僕が「上司にも事情があるんだ」「感謝して辞めよう」なんて聖人君子のようなことを考えていたら、あの日、会社に行くことはできなかっただろう。
恐怖に負けて、駅のホームから引き返していたはずだ。
綺麗な心でなくていい。
憎しみでも、恨みでもいい。
それが「生き残る」ための力になるなら、悪魔の炎だって利用すればいいのだ。
天使のように清く正しく死ぬより、悪魔のように執念深く生き残る方が、100倍価値がある。
5. 接敵 — 氷の城の王
会社のビルが見える。
巨大なガラス張りの墓標。
朝日を反射して輝くその建物が、僕を見下ろしている。
自動ドアが開く。
プシューという音と共に、冷房の冷気が肌を刺す。
この冷たさが嫌いだった。
人間の体温を奪い、感情を凍結させるような、人工的な冷たさ。
エレベーターで7階へ。
表示板の数字が上がるたびに、心拍数が上がっていく。
3……4……5……。
カウントダウンだ。僕という会社員が終わるまでの。
「チン」
7階に着く。扉が開く。
フロアに足を踏み入れると、いつもの空気が張り詰めていた。
電話の音。キーボードを叩く音。コピー機の駆動音。
誰もしゃべらない。誰も笑わない。
聞こえるのは、業務に必要な機械的な音声だけ。
まるで、養鶏場の鶏が、ただ卵を産むためだけに管理されているような景色。
空気そのものが凍りついているような職場。
その奥に、奴はいた。
僕の心を壊した元凶。絶対君主である上司。
彼は、不機嫌そうにモニターを睨みつけながら、何かを打ち込んでいた。
その背中を見るだけで、パニック発作の前兆のような息苦しさが襲ってくる。
心臓の鼓動が、耳の奥でドクドクと鳴り響く。
喉がカラカラに乾く。舌が上顎に張り付く。
足がすくむ。膝が笑う。
——帰りたい。
——トイレに行きたい。個室に隠れたい。
——「体調不良で休みます」と電話すればよかった。メールで済ませればよかった。
弱気な僕(被告人)が、袖を引っ張る。
「やめよう、藍沢。怒られるぞ。怒鳴られるぞ」と耳元で囁く。
だが、ポケットの中の診断書が、熱を帯びて主張する。
『行け。今日を逃せば、お前は本当に死ぬぞ』
『ここで引いたら、一生奴の奴隷だぞ』
僕は大きく息を吸い込み、呼吸を止めた。
腹に力を入れる。
そして、死刑台に向かうような歩調で、上司のデスクへと歩み寄った。
一歩、また一歩。
靴音がフロアに響く。
誰も僕を見ない。まるで僕が透明人間であるかのように。
「あの、お時間よろしいでしょうか」
声が裏返った。情けないほど細い声だった。
上司がゆっくりと、面倒くさそうに顔を上げる。
その爬虫類のような冷たい目と、視線が交差した。
背筋に氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
6. 執行 — 診断書という名の印籠
「なんだ」
低い声。それだけで、条件反射的に体が縮こまる。
パブロフの犬のように、恐怖が骨の髄まで刷り込まれている。
怒られる。否定される。罵倒される。
過去のトラウマがフラッシュバックする。
「……これ、見ていただけますか」
僕は、震える手で封筒を差し出した。
指先は血の気を失い、蝋細工のように白くなっていた。
わずかな空気の振動さえも指先に伝わるほど、神経が研ぎ澄まされている。
時間が、引き伸ばされていく。
スローモーションの世界。
上司は無造作にそれを受け取る。
「なんだこれは」と言いたげな顔で、乱暴に封を切る。
ビリッ。
紙が破れる音が、静まり返ったオフィスに銃声のように響いた。
彼が便箋を取り出す。紙と紙が擦れる、カサッという乾いた音。
エアコンの駆動音だけが、ブーンと低く唸っている。
遠くで誰かの電話の声がするが、水槽の外の出来事のように遠い。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。ドク、ドク、ドク。鼓膜を内側から叩いている。
上司の視線が、紙の上を走る。
1行、2行。
眉間(みけん)に深い皺が刻まれていく。
その数秒間が、何時間にも感じられた。
僕は息をするのも忘れて、彼の表情の変化だけを見つめていた。
上司が、紙を机の上に放り投げた。
パサリ、という音がした。
「で?」
上司は言った。感情のない声で。
「これで、休みたいってことか?」
心配の言葉など、期待していなかった。
「大丈夫か?」の一言も、「無理させて悪かったな」の一言も。
だが、ここまで冷淡だとは。
目の前の部下が、精神を病んで診断書を出しているのに、彼はまるで「コピー機のトナーが切れた報告」を受けた時と同じような顔をしていた。
その態度が、逆に僕を冷静にさせた。
恐怖が、諦めと軽蔑に変わった。
ああ、この人は、僕のことを人間だと思っていないんだ。
ただの「使い捨ての乾電池」か「機能しなくなったパーツ」としか思っていないんだな、と。
そう思ったら、不思議と声が出た。
感情が抜け落ちた、冷たい声だった。
「はい。医師から、即時の休職が必要だと言われました」
「診断書にも、そう書いてあります」
僕は、用意していたセリフを棒読みした。
感情を一切乗せず、事実だけを淡々と告げる。
これは、恐怖で感情が麻痺していたからこその防衛反応だった。
だが、この「感情を排し、事実のみを武器にする」という話し方が、のちに僕の最大の武器となる「交渉術」や「ライティング」の原点になるとは、当時の僕はまだ知る由もなかった。
上司は舌打ちをしそうな顔で、もう一度診断書を見た。
そして、吐き捨てるように言った。
「チッ……最近の奴は、すぐにこれだ」
「わかったよ。人事に回しておく。引継ぎはどうするんだ?」
自分のマネジメントの不備を棚に上げ、僕の弱さのせいにする。
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で彼に対する「尊敬」や「畏怖」が完全に消え失せた。
彼は王様なんかじゃなかった。
ただの、想像力の欠如した哀れな裸の王様だった。
「……書面でまとめてあります。サーバーに入れておきます」
「そうか。じゃあ、もういいよ」
彼は視線をモニターに戻した。
まるで、壊れたボールペンをゴミ箱に捨てるような、軽い手つきで。
「早く出ていけ」という無言の圧力が放たれる。
僕は一礼もせず、踵(きびす)を返した。
勝った。
僕は、勝ったのだ。
罵倒もされず、引き留めもされず、ただ「無」として処理されたけれど、僕は自分の要求を通したのだ。
7. 痕跡 — 休息への身支度
自分のデスクに戻る。
周りの同僚たちは、相変わらず忙しそうにキーボードを叩いている。
僕だけが、違う時間の流れにいるようだ。
僕はPCに向かい、作成しておいた引継ぎ資料をサーバーの共有フォルダに移動した。
ドラッグ&ドロップ。
数メガバイトのデータが、一瞬で吸い込まれていく。
これで、僕の持っていたボールはすべて手離れした。
次に、メールソフトを開き、不在時の自動応答を設定する。
「件名:休職のお知らせ」
「本文:本日から体調不良により、しばらくの間お休みをいただきます。ご用件は……」
設定ボタンを押す。
これで、僕の業務は公式に「停止」した。
明日から僕宛に届くメールは、自動的に弾き返される。
引き出しの中の私物を整理する。
歯ブラシ、常備薬、読みかけの本。
それらをビジネスバッグにしまう。
机の上は綺麗に片付いたが、PCや文房具はそのまま引き出しにしまった。
あくまで「休み」なのだ。戻ってくる場所は、形式上は残されている。
首から下げていた社員証を外し、ポケットに突っ込む。
プラスチックの硬い感触。
まだ僕はここの社員だ。
でも、明日からしばらくの間、このカードキーで扉を開けることはない。
「……よし」
PCをシャットダウンする。
画面が暗転し、ファンの音が止まる。
その静寂が、僕の休暇の始まりを告げていた。
僕は鞄を持って立ち上がった。
「お先に失礼します」
誰にともなく小声で呟く。
返事はなかったが、それでよかった。
静かに、フェードアウトするように、僕はオフィスを後にした。
8. 境界線 — 自動ドアが隔てる二つの世界
エレベーターホールに向かう。
背後で、電話が鳴る音が聞こえた。
誰かが「すいません、担当の藍沢はただいま席を外しておりまして……」と嘘をついているのが聞こえた。
その声が、遠い異国の言葉のように聞こえる。
エレベーターに乗る。
「▼」のボタンを押す。
扉が閉まる。
7階のフロアが、狭い隙間の向こうに消えていく。
最後に一瞬だけ見えたオフィスの光景は、モノクロ映画のように色褪せて見えた。
1階に着く。
警備員さんに会釈をする。
「お疲れ様です」
いつもの挨拶だが、今日だけは「しばらく来ません」という意味を込めた。
自動ドアの前に立つ。
ガラスの向こうに、外の世界が見える。
光の世界。
センサーが反応し、ガラスの扉が開く。
一歩、外に出る。
ムッとするような熱気と、眩しい太陽の光。
車の走る音。街の喧騒。蝉の鳴き声。
僕は、境界線を越えた。
今日からしばらく、ここに来なくていい。
目覚まし時計に怯えなくていい。
その事実が、ゆっくりと体に染み渡ってくる。
深く息を吸い込む。
排気ガスと湿気が混じった空気だが、オフィスの無菌室のような空気より、ずっと美味しく感じた。
肺の奥まで酸素が行き渡る。
張り詰めていた糸が、プツリと切れた気がした。
振り返ると、巨大なオフィスビルが、墓標のようにそびえ立っていた。
ガラス張りのその塔の中に、何千人もの人間が詰め込まれ、今も働いている。
僕はあの中で、殺されかけた。
魂を削り取られ、抜け殻にされそうになった。
でも、生きて出てきた。
「ざまあみろ」
誰に対してともなく、小さく呟いた。
駅へと続く道を歩き出した瞬間、不意に視界が歪んだ。
涙だった。
悲しいわけではない。ただ、泥のように重かった肩の荷物が、一気に降りた反動だった。
僕は逃げるように駅のトイレに駆け込んだ。
個室に入り、鍵をかける。
鞄をフックに掛ける。
便座の蓋に座り込み、ネクタイを緩めた瞬間、堰を切ったように嗚咽が漏れた。
「うぅ……あぁ……」
声を殺して泣いた。
30歳のいい大人が、平日の昼間に、駅のトイレで泣いている。
でも、止まらなかった。
戦いが、終わったのだ。
いや、一時休戦か。どちらでもいい。今はただ、眠りたい。
ひとしきり泣いて、顔を洗うために個室を出た。
鏡を見る。
目は赤く腫れ、髪は乱れている。
でも、その顔は、今朝見た「死人の顔」ではなかった。
少しだけ、血の気が戻っていた。
「疲れた顔だな」
僕は鏡の中の自分に呟いた。
「でも、これからは自分のために時間を使える」
それは、人生で一番静かで、一番「ほっとした」瞬間だった。
9. 判決 — 検察官(真面目さ)の沈黙
駅のホームに向かう。
鞄が少し重い。
でも、足取りは驚くほど軽かった。重力から解放された宇宙飛行士のように。
いつもなら、この時間帯に脳内で喚き散らしている「検察官」が、今は黙り込んでいた。
僕の脳内法廷の構造は、こうだ。
検察官(真面目さ・常識):
「逃げるな」「頑張れ」「社会人としてあるまじき行為だ」と僕を弾劾する存在。
弁護人(生存本能・直感):
「もう無理だ」「休め」「逃げろ」と僕を守ろうとする存在。
これまでの30年間、僕の脳内裁判では、常に検察官が勝ってきた。
「辛い」と弁護人が訴えても、検察官が「甘えるな!」と一喝すれば、僕は有罪(我慢)を受け入れてきた。
だが、今日は違う。
脳内法廷において、初めて「弁護人」が完全勝利したのだ。
僕が突きつけた「診断書」という名の最強の証拠書類の前に、検察官はぐうの音も出なかった。
判決は「無罪」。
理由は「正当防衛」。
自分の命を守るための行動は、どんな法律よりも、どんな道徳よりも優先される。
僕は心の中で、うなだれる検察官に告げた。
「少しの間、黙っていてくれ。僕は今から、傷ついた自分を治療しに行くんだ」
「お前の言う『正しさ』で、僕は死にかけたんだ。これからは、僕のルールで生きる」
10. 覚醒 — 違和感という名の羅針盤
歩きながら、僕は自分の腹の底にあった「違和感」について考えていた。
入社した時から、ずっと感じていた違和感。
満員電車に乗る時の吐き気。
無意味な会議への苛立ち。
上司の顔色を伺うだけの毎日への虚無感。
「何かがおかしい」
「ここは僕のいるべき場所じゃない」
「みんな死んだような目をしている」
でも、僕はその違和感を「論理」でねじ伏せてきた。
「大企業だから安定している」
「給料がいいから我慢すべきだ」
「辞めたら他に行き場がない」
「みんな我慢しているんだから」
左脳(論理)が右脳(感覚)を説き伏せ、麻痺させてきた。
ある学びの中には、こんな言葉があった。
「脳は嘘をつくが、身体(感覚)は嘘をつかない」と。
違和感とは、魂が発する高精度なアラートシステムなのだと。
「そっちに行くと危険だ」「それはお前の道じゃない」と教えてくれる、内なる羅針盤なのだと。
僕は8年間、そのアラートを無視し続け、論理を優先させてきた。
その結果が、このザマだ。精神崩壊寸前まで追い込まれた。
身体は正しかったのだ。最初から、答えを知っていたのだ。
「違和感の方が、正しかったんだ」
その事実に気づいた時、僕は怖さよりも、ある種の爽快感を感じていた。
僕の感覚は、狂っていなかった。
狂っていたのは、僕の感覚を否定し続けた「常識」の方だったのだ。
社会のレールの方が、僕にとっては異常だったのだ。
これからは、もう自分の感覚を無視しない。
論理よりも、直感を。
正解よりも、違和感を。
他人の地図よりも、自分の羅針盤を。
この「感覚」さえ信じていれば、僕はもう二度と、あんな氷の城には迷い込まないはずだ。
11. 戦略的撤退 — 敗走ではなく、布石
駅のベンチに座り、自販機で買った冷たいコーヒーを飲む。
プシュッ、という音が響く。
冷たい液体が喉を通り、火照った体を冷やしていく。
こんな平日の真昼間に、スーツを着て、鞄を横に置いてベンチに座っている自分。
側から見れば、ただの休憩中のサラリーマンに見えるだろう。
でも、心は違う。敗残兵であり、落伍者だ。
でも、僕の心の中には、奇妙な火が灯っていた。
小さいけれど、決して消えない火が。
僕は負けて逃げ帰ってきたんじゃない。
一度、陣形を立て直すために、キャンプに戻ってきたんだ。
この休職期間は、ただ寝て過ごすための時間じゃない。
傷を癒やすだけじゃない。
武器を磨き、知恵をつけ、次に戦場に出る時には、二度と誰にも支配されない自分になるための「準備期間」だ。
雇われるのではなく、自分の足で立つための力を蓄える時間だ。
そう、これは「戦略的撤退」だ。
歴史上のあらゆる名将が、不利な戦況で一度退き、力を蓄えてから反撃に転じたように。
ダンケルクの撤退が、後の勝利への布石だったように。
僕の人生の第2章は、この「撤退」から始まるのだ。
「さて、何から始めようか」
飲み干したコーヒーの空き缶をゴミ箱に投げ入れる。
カラン、と乾いた音が響いた。
それは、僕の再出発を告げる号砲(ゴング)のように聞こえた。
診断書という武器を使って、僕は会社という檻から脱出した。
目の前に広がるのは、無限の自由時間。
誰にも命令されない、誰にも怒られない、空白の毎日。
しかし、古いOS(思考)のままでは、また同じ場所に戻ってしまう。
僕は、脳みその中身をすべて入れ替える決意をする。
出会ったのは、ある「一人の男の音声」だった。
朝から晩まで、耳にイヤホンをねじ込み、脳を直接書き換える日々。
それはもはや学習ではなく、人格を根本から作り変える「洗浄」の儀式だった。
3650時間に及ぶ、静かで狂気じみた変身が始まる。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










