第011話 — 3650時間という名の脳の洗浄 —

耳の奥が、常に熱を持っていた。
(……今これを書きながら、無意識に左耳を触ってしまった。14年経った今でも、時々あの頃の幻痛を感じることがある。だが、この痛みと引き換えに、僕は「誰にも命令されない朝」を手に入れた。)

2012年6月からの1年間。
僕の耳には、四六時中、白いイヤホンがねじ込まれていた。
朝起きた瞬間から、夜眠りに落ちるまで。
いや、眠っている間でさえも。

食事中も、トイレの中でも、入浴中でさえも。
僕の鼓膜はずっと振動し続け、ある一人の男の声を脳内に流し込んでいた。

その総時間、約3650時間。
1日10時間 × 365日。
鼓膜が擦り切れるほど、同じ音声を繰り返し聞き続けた。

これは「勉強」なんていう生易しいものではなかった。
これは「洗浄」だ。
8年間かけて染み付いた「会社員根性」という油汚れを、高圧洗浄機で根こそぎ洗い流すための、狂気じみた儀式だった。

1. 前回のあらすじ — 救命ボートから無人島へ

第10話で、君は僕が「診断書」という武器を使って、会社という沈没船から脱出する瞬間を見た。

上司との冷たい別れ。
鞄ひとつ分の軽い人生。
そして、駅のトイレで流した涙。

あの日の僕は、確かに勝った。
自分の命を守るために、組織に対して「NO」を突きつけたのだから。
「もう、誰にも支配されない」
そう誓って、自動ドアの外へ飛び出した。

だが、救命ボートに乗った後、僕が漂着したのは「自由」という名の無人島だった。
2012年6月。
僕の「休職生活」が始まった。

2. 空白 — 自由という名の刑罰

最初の数日は、解放感に浸っていた。
目覚まし時計をかけずに眠れる幸せ。
満員電車に乗らなくていい安堵感。

だが、その蜜月は一瞬で終わった。

朝起きても、行く場所がない。
スマホを見ても、連絡など来ない。
社会との接点が、プツリと切れている。

窓の外からは、通勤する人々の足音が聞こえる。
カツカツカツという革靴の音。
以前なら胃が痛くなっていたその音が、今は僕を責め立てる。
「俺たちは働いているぞ」
「お前は何をしているんだ」
「社会の脱落者め」

広すぎる自由は、地図を持たない人間にとっては、ただの遭難でしかなかった。
僕は、会社という檻から出た瞬間、自分がどこにも進めない「迷子」であることに気づかされたのだ。

3. 内省 — OSの書き換え

ある朝、目が覚めると身体が勝手に動いていた。
午前6時30分。目覚ましは鳴っていない。
布団を跳ね除け、無意識にクローゼットのスーツに手を伸ばした瞬間、ハッとした。

「違う。僕はもう、行かなくていいんだ」

手が震えていた。
その時、理解した。

PC画面に向かって考えていたような論理的な話じゃない。
僕の「肉体」そのものが、会社員としてプログラムされている。
決まった時間に起き、決まった服を着て、決まった場所へ運ばれる。
自分の脳と身体にインストールされた「服従」と「安定」のOS。
それが、自由な環境(休職中)とエラーを起こして、全身にアラートを鳴り響かせているのだ。

このままでは、また同じ場所に戻ってしまう。
オートパイロット機能が、僕をまたあの満員電車へと引き戻そうとしている。
それだけは、死んでも嫌だった。

「OSを変えるしかない」

だが、どうやって?
チョロチョロと水を流しても、骨の髄まで染み付いた油汚れは落ちない。
必要なのは、高圧洗浄機のような勢いと、圧倒的な水量だ。

「圧倒的な量の新しい情報」で、脳みそを物理的に洗浄するしかない。

4. 接触 — 運命の音声ファイル

転機は、YouTubeの海を彷徨っていた時に訪れた。
「成功者のマインドセット」
そんなありふれたタイトルの動画だった。

再生ボタンを押す。

「いいかい。給料というのは、我慢の対価じゃない」

落ち着いた、しかし力強いバリトンの声。
男は淡々と言い放った。

「あれは、君の『一生飼い殺しにするための麻酔』だ。毎月決まった日に振り込まれる金で、君は自分の夢を少しずつ売っているんだよ」

動画を止めた。
台所の換気扇の音だけが、やけに大きく聞こえた。

麻酔。
その二文字が、僕の人生のすべてを説明していた。
なぜ辞められなかったのか。なぜ思考停止していたのか。

ドクン、と心臓が跳ねた。
僕の脳内法廷の弁護人(生存本能)が、立ち上がって叫んだ。
『これだ! これを聞け!』
『この言語なら、僕たちの呪いを解ける!』

僕はその発信者の有料教材(音声プログラム)を、なけなしの貯金で購入した。
それが、僕の人生を変える「最初の投資」だった。

5. 洗浄開始 — 1日10時間の没入

そこから、僕の「洗浄」が始まった。
1日24時間のうち、睡眠以外のほぼ全ての時間を音声学習に費やした。

午前6時。目が覚めると同時に、枕元のイヤホンを手探りで探し、耳にねじ込む。
「おはようございます。今日はマインドセットの第3章から始めましょう」
男の声が、寝起きの無防備な脳に直接響く。

顔を洗う時も、トイレに入る時も外さない。
狭いワンルームで一人、食事中も常に音声を流し続けた。
インスタントの味噌汁をすすりながら、「資産構築」の話を聞く。
納豆を混ぜながら、「レバレッジ」の話を聞く。

ある夜、風呂上がりに洗面台の鏡を見た。
濡れた髪。充血した目。そして耳から伸びる白いコード。
その姿は、生命維持装置に繋がれた実験動物のようだった。

「ははっ」

乾いた笑いが出た。
俺は一体、何をやっているんだ?
客観的に見れば、完全に精神を病んだ男だ。
だが、この狂気こそが、今の僕を繋ぎ止める唯一の正気だった。

最初は、激しい拒絶反応があった。
「非常識な成功法則」「嫌なことはやるな」「わがままに生きろ」。
僕の中の常識が「そんなの嘘だ!」と叫んだ。

頭痛がした。吐き気がした。
それでも、僕はイヤホンを外さなかった。
痛みは、古い鼓膜が破れ、新しい鼓膜が作られる「成長痛」だと信じた。

6. 5ヶ月目の変異 — 檻を出る決意

1日平均10時間。
それを5ヶ月間、1日も休まず続けた。
累積時間は1500時間を超えていた。

通常、休職期間は数ヶ月程度が多い。
だが、僕は新卒から約8年勤めていたこともあり、会社からは「最長で1年」の休職が認められていた。
医者も「焦らず、ゆっくり治せばいい」と言ってくれた。
だが、この時点で僕の脳内には不可逆的な変化が起きていた。

同じ音声を100回、200回と聞き、話し手の息遣いまで完コピーできるようになった頃。
「会社に戻る」という選択肢が、物理的に消滅したのだ。
感情的な「嫌だ」ではない。
論理的な「不可能」だ。

鳥かごの扉が開いているのに、わざわざ戻る鳥はいない。
空の広さを知ってしまった僕は、もうあの狭い場所には戻れなかった。

「もう、行く時だ」
5ヶ月目の朝、僕は直感した。
OSの書き換えはまだ道半ばだ。だが、古い場所を去るには十分な「初期OS」が完成していた。
僕は予定を早め、飛び立つことにした。

7. 決断 — 2012年11月、退職

秋風が吹き始めた2012年11月。
僕は会社に向かった。

復職するためではない。
終わらせるためだ。

会議室で上司と向かい合う。
数ヶ月前、ここで震えていた自分はもういない。
僕は鞄から一通の封筒を取り出し、テーブルに置いた。

「退職願」

目の前に座っているのは、元いた営業部の上司ではない。
休職手続きの時から親身になってくれた、人事部の部長だ。
彼は驚いた顔をして、心配そうに僕を見た。

「君、まだ休職期間は半年以上残っているだろう?
焦らなくても、もう少しゆっくりしてから決めても……」

「いいえ」
僕は上司の言葉を遮るように、しかし穏やかに答えた。
「もう十分休みました。次に進みたいんです」

手続きは淡々と進んだ。
社員証を返し、書類に判を押す。
一つ判を押すたびに、僕を縛っていた鎖が一本ずつ切れていく音がした。

ビルの外に出る。
見上げた空は、どこまでも青かった。
今日から僕は、何者でもない。
肩書きも、保証も、給料もない。

普通なら不安で押しつぶされる瞬間だ。
だが、僕の耳にはまだ、あの音声が流れていた。

8. 3650時間 — 自由という名の修練

会社を辞めたからといって、僕の洗浄が終わったわけではない。
むしろ、ここからが本番だった。

自由になった時間を、遊びには使わなかった。
僕はさらに深く、音声の世界に潜り込んだ。

退職してからの7ヶ月間。
僕は狂ったように聞き続けた。
1日10時間。それをさらに200日以上。

休職期間と合わせて、トータル3650時間。

振り返れば、脳の書き換えには明確な「3つの段階」があった。

最初の500時間は「拒絶期」
脳が異物を吐き出そうとして、頭痛と吐き気が止まらなかった。

次の1500時間は「模倣期」
思考が彼の完全なコピーになった。話し方、呼吸、判断基準。
すべてを借り物の服で固め、自分が自分でなくなるような感覚。

そして2000時間を超えたあたりで、変化が起きた。「統合期」だ。

ある日、音声の中で彼が言った。
「感情は邪魔だ。すべて損得で判断しろ」
いつもなら無条件に頷くはずのその言葉に、胸の奥で小さな棘が刺さった。

「いや、それは違う」

損得では説明できない涙や情熱があることを、僕は知っていた。
その瞬間、借り物だった言葉が溶け出し、僕自身の血肉と混ざり合った。
僕は彼になったのではない。
彼の思考を喰らって、進化した「新しい僕」になったのだ。

一つだけ、正直に言っておく。
この方法は「劇薬」だ。

一人の人間の声を3650時間聴き続ければ、人格は確実に書き換わる。
だがそれは、一歩間違えれば「洗脳」だ。
もし僕が選んだ相手が悪意を持った詐欺師だったら、僕は今頃、犯罪者になっていたかもしれない。
だからこそ、誰の声を入れるか。
その選択だけは、他人のレビューではなく、君自身の魂の直感で選ばなければならない。
それは、命がけのロシアンルーレットだ。

鏡に映る自分の顔が変わった。
あの死んだような魚の目は消え、獲物を狙う野良犬のような、鋭い光が宿っていた。
口癖が変わった。思考が変わった。

そしてある日、僕は電車に乗り、都心から少し離れた海辺の公園に向かった。

久しぶりにイヤホンを外す。
波の音。風の音。遠くで鳴くトンビの声。
それらが、驚くほどクリアに聞こえた。

以前のような、頭の中で鳴り響く「不安の声」や「世間の雑音」は、もう聞こえなかった。
僕の中には、確固たる「新しい羅針盤」があった。
正解は外にはない。自分の中にある。

「よし」

僕は海に向かって呟いた。
OSの入れ替えは完了した。
準備は整った。
あとは、この新しい脳みそを使って、現実世界を攻略するだけだ。

僕はニヤリと笑い、新しい空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
ここから、俺の本当の挑戦が始まる。

9. 次回予告 — 運命の師匠との出会い

会社を辞め、退路を断った僕。
脳のOSは書き換わった。
やる気だけは満ち溢れていた。

だが、現実は甘くなかった。
「起業する」といっても、具体的に何をすればいい?
ネットで稼ぐ? アフィリエイト? 転売?
OSは最新になったが、肝心の「アプリ(稼ぐ手段)」が入っていなかったのだ。

そんな僕の前に、一人の人物が現れる。
音声の中の男ではない。
リアルな世界で出会った、怪しくも魅力的な、ある年上の男性。

彼は、僕の人生を根底から揺さぶる「ある禁断の質問」を投げかけた。

「君は、何のために生きている?」

……いや、そんなありきたりな質問ではなかった。
もっと残酷で、もっと本質的な、魂をえぐるような問いだった。

次回、「師匠という名の運命の分岐点」。

その出会いは、偶然ではなかった。
僕の思考が引き寄せた、必然のシンクロニシティだった。


この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。

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