第000話 — 静寂という名の生還証明 —

これは成功物語じゃない。

満員電車で心を殺し、うつで倒れ、借金を背負い、半額弁当で食い繋いだ男の、21年間の全記録だ。

君が今「仕方ない」と感じているなら、5分だけ時間をくれ。

僕が21年分の失敗で手に入れた答えを、この物語に全て込めた。


あの朝。

朝6時。目覚ましが鳴る。

布団の中で、すでに疲れている。眠りが浅かったのか、それとも眠る前からずっと疲れていたのか、もう分からない。とにかく身体が重い。鉛を飲み込んだみたいに、全身がベッドに沈んでいる。

でも起きなければならない。今日も会社がある。上司がいる。理不尽がある。だから目を開けて、冷たい床に足をつけて、昨日と全く同じ動作で一日を始める。

キッチンに立つ。昨夜の残りのコンビニ弁当を電子レンジに放り込む。500Wで2分。ブーンという低い音だけが、狭いワンルームに響いている。

シャワーを浴びる。スーツを着る。ネクタイを締める。鏡を見る。そこに映る顔は笑っていない。泣いてもいない。何も感じていない顔だ。3年前も、きっと同じ顔をしていた。

「仕方ない。みんなこうやって生きてるんだ」

そう呟いて、玄関を出る。駅までの道を歩く。信号待ちの間、横を通り過ぎるサラリーマンたちの顔を見る。誰も笑っていない。皆、同じ方向を向き、同じ速度で歩いている。


この朝。

目が覚める。目覚まし時計は鳴っていない。鳴っていないのに、目が覚めた。

静かだ。ただ、静かだ。


あの朝。

駅に着く。ホームに降りる。満員電車が来る。

黒いスーツの塊に背中から押し込まれて、他人の体温と汗の匂いに包まれる。隣の人の肘が脇腹に当たる。鞄の金具が肋骨に食い込む。誰も謝らない。誰も目を合わせない。全員が同じ方向を向いて、同じ速度で運ばれていく。

イヤホンをつけて、目を閉じる。こうしないと、自分が何千という肉の塊の一つであるという事実に押し潰されそうになる。

別に、殴られているわけじゃない。給料は出ている。屋根のある場所で眠れている。世の中にはもっと大変な人がいる。自分はまだマシだ——そうやって、自分の痛みを自分で否定する。

でも、何かが決定的におかしい。毎日、自分の時間を他人に明け渡している。自分の人生なのに、自分で何一つ決められていない。気がつけば、自分が何を好きだったのかすら思い出せなくなっている。周りは普通にやれているように見える。なのに自分だけが、内側から静かに壊れていく気がする。

たまに「独立」とか「転職」とか、そういう言葉が頭をよぎる。でもすぐに「自分には無理だ」「失敗したらどうする」という声が聞こえてくる。その声の主が他人じゃなくて自分自身だということが、一番きつい。

一番怖いのは、この生活がこのまま5年、10年と続くことだ。30歳が35歳になり、40歳になり、気づいたら50歳になっている。「仕方ない」と言い続けたまま、何も変わらず、ただ年齢だけが増えていく。日曜の夜がくるたびに胸が苦しくなる。月曜の朝が怖い。その繰り返しが、もう何年も続いている。

電車が揺れる。目を開ける。窓の外を、灰色の街が流れていく。

夜、家に帰る。疲れているのに眠れない。布団の中でスマホを開いて、意味もなくSNSをスクロールする。誰かの転職成功、誰かの独立報告、誰かの「人生変わりました」。そういう投稿を見るたびに、胸の奥がざらつく。すごいな、とは思う。でもその次に来るのは「自分には無理だ」という声だ。

画面を閉じる。天井を見る。暗い部屋の中で、明日もまた同じ朝が来ることだけが確実に分かっている。

「仕方ない」

また、その言葉が口をつく。


この朝。

コーヒーを一口飲む。苦い。温かい。

この静かな朝は、無料(タダ)で手に入ったものじゃない。

二つの朝

あの満員電車の中で心を殺していた男と、この窓辺でコーヒーを飲んでいる男は、同じ人間だ。

同一人物だ。21年前の僕と、今の僕だ。

この間に何があったのか。短く言えばこうなる。

8年間、会社という名の檻の中にいた。上司に人格を否定され、挨拶を無視され、企画書をゴミ箱に捨てられた。それでも「仕方ない」と言い聞かせて通い続けた。ある朝、ベッドから起き上がれなくなった。身体が動かなかった。天井のシミを一日中見つめていた。精神科に行った。

その後、独立した。月収が100万を超えた時期もあった。全部うまくいくと思った。でも全部失った。返しきれない借金だけが残った。夜のスーパーで、惣菜に半額シールが貼られるのを待つ生活が始まった。あの黄色いシール一枚に、人生が左右されていた。

この朝にたどり着くまでに、21年かかった。

才能があったからじゃない。運が良かったからでもない。

ただ、「仕方ない」が嘘だと気づいた日があった。

あの電車の中で何千回と繰り返した「仕方ない」。あれは事実じゃなかった。自分が自分にかけていた呪いだった。その呪いが解けた日から、全てが動き始めた。

君は今、どっちの朝にいる?

この質問の答えは、君自身が一番よく知っているはずだ。

もし「あの朝」にいるなら、僕は君に伝えたいことがある。

さっき読んでいて、胸がざわついたんじゃないだろうか。「これ、自分のことだ」と思ったんじゃないだろうか。日曜の夜の恐怖も、自分が何を好きだったか思い出せない感覚も、「自分には無理だ」という声も、全部覚えがあるんじゃないだろうか。

「この朝」は、存在する。

選ばれた天才だけのものじゃない。運のいい成功者だけが住む異世界の話でもない。あの満員電車の中で「仕方ない」と呟いていた男が、21年かけて、現にここにいる。

なぜ、僕は恥を晒すのか。

正直に言おう。
これから始まる全15話は、僕にとって「墓場まで持っていきたい黒歴史」ばかりだ。

いい大人が、トイレで声を押し殺して泣く話。
月収100万という小金を手にして、傲慢になり、全てを失う話。
スーパーの半額弁当を奪い合い、惨めさで震える夜の話。

本来なら、誰にも見せたくない。
成功した今の姿だけを見せて、「君も頑張ればこうなれる」と笑っていたほうが、よほどスマートだ。

それでも、僕は全てを公開することにした。
泥も、傷も、醜いあがきも、そのままに。

なぜか?

君に、「最短ルート」を通ってほしいからだ。

君は、真面目すぎる。

君が今苦しいのは、君が弱いからではない。
むしろ、真面目で、責任感が強すぎるからだ。

「自分が我慢すればいい」
「みんな辛いんだから、仕方ない」

そうやって、自分の心の悲鳴を無視できるほど、君は強い。
だが、その強さが仇(あだ)になる時がある。

僕はその「間違った我慢」の果てに、一度人生を壊した。
再起不能なレベルまで、心をすり減らした。

君には、そこまで落ちてほしくない。
僕が落ちた落とし穴の場所を、僕が踏んだ地雷のありかを、先に伝えておきたい。

これは、地雷原を歩く君に渡す、一枚の「地図」だ。

明日の朝、電車に乗る前に。

もし、君が明日もまた、あの満員電車に乗らなければならないのなら。
その前に、たった5分だけ、僕に時間をくれないか。

第1話には、僕が最初に気づいた「ある違和感」について書いた。

それは、君も毎朝感じていることかもしれない。
しかし、その違和感を「仕方ない」と飲み込んだ瞬間、君の20年後は「僕の失敗」と同じルートに固定されてしまう。

脅すつもりはない。
ただ、知ってほしいのだ。
その電車が、君をどこへ運ぼうとしているのかを。

答え合わせをしよう。

僕の物語は、今の君の物語でもある。

ページをめくるたびに、君は「これは自分のことだ」と感じるはずだ。
そして、僕がどうやってその泥沼から抜け出したのかを知るたびに、君の足元の鎖が一つずつ解けていくのを感じるはずだ。

眠れない夜を過ごしているなら、今ここで、その不安の正体を突き止めよう。

僕があの電車の中で最初に「違和感」を覚えたのは、23歳の春だった。
だが、その正体を突き止めたのは、31歳の冬だった。
その8年間に、僕が何を失ったか。それだけは、知っておいて欲しい。

この違和感に蓋をして、明日もまた「仕方ない」と呟きながらあの電車に乗ることもできる。
だが、その行き先を知った上で乗るのと、知らないまま運ばれるのとでは、意味が全く違う。

準備はいいか。

まずは、2005年の春。
あの息苦しい満員電車の中から、全てを始めよう。