1. 前回のあらすじ — 自由の香りと、忍び寄る影
運命とは、時に残酷なほど鮮やかなコントラストを描く。
3650時間の孤独な猛勉強を経て、僕は師匠(メンター)と出会った。
震える手で送った一通のDMが、閉ざされた扉をこじ開けたのだ。
そして2013年。
退職し、背水の陣で挑んだアフィリエイト。
師匠の教えをインストールした僕の報酬は、初報酬の500円から13,000円になり、やがて会社員時代の給料を遥かに超えていった。
「自由だ」
肺の奥まで吸い込んだその空気は、甘く、どこまでも軽やかだった。
目覚まし時計のない朝。満員電車のない日常。嫌な上司も、理不尽な命令もない世界。
僕は、勝ったのだ。
そう確信していた。
当時、インターネットの世界は熱狂に包まれていた。
2013年から2015年頃。
「ブログで稼ぐ」という言葉が市民権を得始め、月収100万、300万という数字が、もはや夢物語ではなく現実的な目標として語られていた。
誰しもが「自分も億万長者になれるかもしれない」という熱病に浮かされ、Googleという神の下に集まっていた時代。
その熱狂の中で、僕のブログのアクセスは右肩上がりに伸び続け、口座には見たことのない数字が積み上げられていく。
世界は僕を中心に回り始めたかのように思えた。
だが、僕はまだ知らなかった。
その「自由」という名の果実の中に、致死量の毒が含まれていることを。
そして、その毒がゆっくりと、しかし確実に、僕の脳を、感覚を、そして人生を蝕み始めていることに。
この記事を書く理由は、一つだけだ。
君に、僕と同じ地獄を見せないためだ。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
絶頂のすぐ隣には、底なしの奈落が口を開けて待っている。
これは、成功という名の麻薬に溺れ、自ら破滅のボタンを押した男の、転落の記録である。
2. 2014年、狂乱の朝 — 脳内を駆け巡る「万能感」
2014年、春。
独立から約1年が経過していた。
僕は、かつて「独房」と呼んだ6畳一間を飛び出し、駅近のマンションに引っ越していた。
内見に行き、その場で即決した物件だ。
広々としたフローリングのリビング。
その中心に、真新しいワークデスクがぽつんと置かれている。
鎮座するのは、最高のスペックを積んだタワー型のPCと、横に並んだ3枚のモニター。
「もっと上へ、もっと高く」
環境を変え、機材を一新し、自分のモチベーションを極限まで高めていた。
生活感のない広い部屋で、青白く光るモニターだけが、僕の世界の全てだった。
デスクの上のトリプルモニター。
左側の画面には、アフィリエイトの管理画面が表示されている。
そこに並ぶ数字の列。
「1,518,524円」
月収100万円。
ついに、大台を超えた。
サラリーマン時代の年収の3分の1を、たった1ヶ月で稼ぎ出したのだ。
右側の画面には、Googleの検索結果。
僕が仕込んだ「ビッグキーワード」での検索画面だ。
一番上。
広告枠の下にある、オーガニック検索の1位。
そこに、僕のブログがある。
「1位だ」
僕は毎朝、起きた瞬間にこれを確認するのが儀式になっていた。
まずスマホで順位を見て、安堵し、次にPCの前に行って、もう一度見る。
何度リロードしても、変わらない。
僕のブログが、大手企業のサイトや、古参のブロガーを押しのけて、頂点に君臨している。
アクセス解析を開く。
リアルタイムの訪問者数が、秒単位で増えていく。
50、80、100、150……。
グラフの線が、垂直に近い角度で空を目指している。
まるで、自分の心臓の鼓動がそのままグラフになったようだ。
ドクン、ドクンという音に合わせて、チャリン、チャリンと金が落ちてくる。
脳内で、快楽物質がドバドバと分泌される音が聞こえる。
ドーパミン。エンドルフィン。
脳味噌が痺れるような、強烈な高揚感。
「俺は、天才だ」
本気でそう思った。
誰も成し遂げられなかったことを、僕はやってのけた。
会社の歯車として死んだような目をしていた僕はもういない。
ここにいるのは、インターネットという大海原を支配する王だ。
「やりましたね、藍沢さん! ついに大台突破ですね!」
師匠からの祝福のメッセージ。
その言葉を見た瞬間、背筋に電流が走った。
あの雲の上の存在だった師匠が、僕を対等な「成功者」として認めてくれたのだ。
「はい! 師匠のおかげです!」
キーボードを叩く指が踊る。
師匠の周りには多くの教え子がいるが、ここまで短期間で成果を出したのは僕くらいだろう。
僕は、選ばれし人間になったのだ。
通帳の残高は増え続ける。
何を買っても減らない。
むしろ、使っている間にまた増えている。
「これが、成功者の景色か……」
窓の外を見下ろせば、小さく見えるサラリーマンたちの群れ。
かつての僕も、あの中にいた。
だが今は違う。
僕は、この高層階から世界を見下ろす「勝者」なのだ。
「このまま突き進めばいい」
「金さえあれば、世界は僕の思い通りになる」
コンビニで値段を見ずに買い物ができる。
寿司屋で皿の色を気にせず食べられる。
タクシーに躊躇なく乗れる。
全能感。
それが、僕の思考を支配していた。
借金?
そんなものは、瞬きする間に消え去った。
学生時代の奨学金、会社員時代のストレスによる散財、独立直後の生活費。
積み重なっていた数百万円の負債は、アフィリエイト報酬が振り込まれるたびに、みるみるうちに返済されていった。
ネットバンキングの「完済」の二文字を見た時、僕は鼻で笑った。
「なんだ、こんなに簡単なことだったのか」
手元には、使い切れないほどの金が残った。
銀行に寝かせておくだけでは能がない。
僕はその余剰資金を、退屈しのぎの「遊び」のつもりで投資の世界へと流し始めた。
「金が金を稼ぐゲームだ」
FX。為替相場。
今の僕なら、この世界も片手間で支配できる気がした。
月収100万どころか、300万、500万、1000万だって夢じゃない。
まさかこの「暇つぶしの遊び」が、後に僕の心臓を貫く凶器になるとは知らずに。
PCのファンの音が、勝利のファンファーレのように聞こえた。
キーボードを叩く指先から、金粉が舞い散るような錯覚。
僕は完全に、狂っていた。
成功という名の熱病に冒され、正常な判断力を失っていた。
足元が崩れかけていることにも気づかず、ただ空だけを見上げて笑っていた。
3. 違和感の正体 — 脳は嘘をつき、身体は真実を語る
今にして思えば、身体はずっと知っていたのだ。
あの狂乱の日々の中で、僕の身体はずっと警報を鳴らし続けていた。
みぞおちのあたりの、得体の知れない重み。
背筋を走る、冷たい悪寒。
ふとした瞬間に襲ってくる、強烈な虚しさ。
「なんか、違う」
「このままでいいのか?」
「怖い」
身体は知っていたのだ。
この成功が、偽物であることを。
他人のプラットフォーム(Google)に依存した砂上の楼閣であることを。
そして、僕の魂が求めている「本当のゴール」とは違う場所に来てしまったことを。
だが、当時の僕はその声を無視した。
「月収100万だぞ。最高じゃないか」
「検索1位だぞ。お前は勝者だ」
「みんなが羨む生活だ。幸せに決まっている」
脳(論理)が、身体(感覚)の声をかき消した。
損得勘定やプライドを使って、現状を正当化する物語を捏造した。
麻薬のような快楽物質で、痛みを麻痺させた。
「脳は嘘をつくが、身体は真実を語る」
この真理に気づいたのは、全てを失ってからだった。
もし君が今、何かに対して「条件はいいけど、なんかモヤモヤする」と感じているなら。
その「モヤモヤ」を絶対に無視してはいけない。
それは、未来の君からの「そっちじゃない!」という必死の叫びかもしれないのだから。
4. 100万円の札束 — 紙切れに変わる瞬間
あの日、僕は銀行に行った。
どうしても、物理的な実感が欲しかったからだ。
ATMではなく、窓口で100万円を下ろした。
帯封のついた、新券の束。
家に戻り、デスクの上にそれを置く。
茶色い銀行の封筒から、ゆっくりと取り出す。
厚み。
約1センチの厚さが、指に食い込む。
ずっしりとした重み。
インクの匂い。
新札特有の、あの少し甘くて、油っぽいような匂い。
それが鼻腔をくすぐる。
「これが、100万円か……」
喉がゴクリと鳴る。
これが欲しかったのだ。
この紙の束を手に入れるために、僕は3650時間を捧げ、会社を辞め、孤独に耐えてきたのだ。
一枚一枚、指で弾いてみる。
パッ、パッ、パッ。
乾いた音が部屋に響く。
福沢諭吉の顔が、何十人も並んでいる。
僕は、強烈な達成感に包まれる……はずだった。
「…………」
数分後。
僕を襲ったのは、歓喜ではなかった。
「虚無」だった。
急に、部屋の音が消えたような気がした。
胸の奥が、スッと冷たくなる感覚。
手足の先から血の気が引いていく。
目の前にある札束が、ただの「紙切れ」に見えてきた。
印刷された紙。それ以上でもそれ以下でもない。
「で、これが何だ?」
そんな声が、頭の中で響いた。
これで何を買う?
高級時計? 車? ブランド服?
欲しいと思えば買える。カタログをめくってみる。
でも、どのページを見ても、全く心が動かない。
「これを買って、誰に見せるんだ?」
「これを持って、どこに行くんだ?」
美味しいもの?
一人で高級レストランに行って、誰と喋るんだ?
ワインリストを見て、ソムリエにうんちくを語られて、一人で頷くのか?
旅行?
どこへ行く? 何をしに?
景色を見て、「きれいだな」と呟いて、それで終わりか?
その時、僕は気づいてしまった。
僕には、「金を使って叶えたい夢」がなかったのだ。
ただ「稼ぐこと」自体が目的になっていた。
「金さえあれば」という強迫観念で走ってきたけれど、いざゴールテープを切ってみたら、そこは断崖絶壁だった。
虚しい。
死ぬほど、虚しい。
手の中にある100万円が、急に重たく感じた。
それは希望の重さではなく、行き場のない欲望の死骸の重さだった。
僕は札束を乱雑に封筒に戻し、引き出しの奥に放り込んだ。
まるで、見てはいけないものを見たかのように。
手が少し震えていた。
「違う、まだ足りないんだ」
「もっと稼げば、この虚しさは消えるはずだ」
そう自分に言い聞かせた。
思考停止。
それが、僕が選んだ逃げ道だった。
身体が発した「虚無」というアラートを、僕は「もっと強い刺激(金)」で塗りつぶそうとしたのだ。
5. 検索順位1位 — Googleという神の気まぐれ
虚無感を打ち消すために、僕はさらにアフィリエイトにのめり込んだ。
数字だ。
数字だけが、僕の価値を証明してくれる。
通帳の残高が増えることだけが、僕の生存証明だ。
ブラウザを開き、検索窓にキーワードを打ち込む。
エンターキーを叩く。
「1位」
よし、まだ1位だ。
僕の城は、まだそこにある。
アクセス解析の画面を見る。
今日も数千人が僕のサイトを訪れている。
僕が書いた文章を読み、僕が貼ったリンクをクリックし、商品を買っていく。
「俺は、大衆を動かしている」
そんな傲慢な勘違いが、僕を支配していた。
だが、冷静に考えてみてほしい。
この「1位」という座は、誰がくれたものなのか?
僕の実力か?
違う。
Googleだ。
Googleという巨大な神が、「お前のブログをここに置いてやろう」と気まぐれに決めただけだ。
検索アルゴリズムという、ブラックボックスの中にあるルール。
そのルールの上で、僕は踊らされているだけに過ぎない。
僕が築き上げたと思っていた城は、実は「他人の土地」の上に建てられたものだった。
借地権すらない。
地主(Google)が「出ていけ」と言えば、一瞬で取り壊される。
「ルールが変わった」と言われれば、昨日までの正解が不正解になる。
君がもし会社員なら、その会社は君のGoogleだ。
君がもしYouTuberなら、YouTubeは君のGoogleだ。
君がもし一人の恋人にすべてを依存しているなら、その人は君のGoogleだ。
他人が「出ていけ」と言えば、一瞬で崩れる城に住んでいないか?
プラットフォーム依存。
これが、当時の僕のビジネスモデルの致命的な欠陥だった。
顧客リスト(メールアドレス)を持っていない。
読者との直接的な繋がりがない。
ただ、検索エンジンという「通りすがり」の客に依存している。
それはビジネスではない。
「運ゲー」だ。
いつ崩れるか分からない砂上の楼閣に、僕は命を預けていた。
しかも、その危うさに気づくどころか、「俺の城は難攻不落だ」と笑っていたのだ。
愚かすぎる。
今なら分かる。
だが、当時の僕は、その「1位」という数字の麻薬に溺れ、足元の砂が崩れ始めている音に、耳を塞いでいた。
6. 孤独な王城と、忍び寄る「黒い影」
「……誰とも喋ってないな」
ある日、ふと気づいた。
最後に人の声を聞いたのはいつだ?
コンビニの店員の「ありがとうございました」以外に、誰かと会話をした記憶がない。
月収100万を超えてから、僕は自宅に引きこもり、ひたすら記事を書き続けていた。
友人の誘いも「忙しいから」と断った。
いや、断ったのではない。話せなかったのだ。
友人に「月収100万だ」と言えば「怪しいことをしている」と思われるだけ。
親に言えば「就職しろ」と説教されるのがオチ。
リアルでは誰にも言えない。
だから、裏垢でこっそりと「月収100万達成」と呟いてみた。
だが、ついた「いいね」は3つだけ。
そのうちの1つは、自動ツールで動いている情報商材屋のアカウントだった。
社会との繋がりは、モニター越しの数字だけ。
金はある。時間もある。
でも、誰とも繋がっていない。
まるで、サイズが合わない高価な服を着せられているような違和感。
金はある。
何でも買える。
誰にも頭を下げなくていい。
それなのに、胸に穴が開いたようだ。
スースーと冷たい風が吹き抜ける。
「俺は、何のために生きているんだ?」
そんな哲学的な問いが、深夜の脳内をループする。
自由を手に入れたはずなのに、精神的な豊かさは、会社員時代よりも痩せ細っていた。
皮肉なことに、一番楽しかったのは「月収100万」というゴールテープを切った瞬間ではなかった。
会社を辞めて、師匠に食らいついて、必死にブログを書いていた、あの「過程」こそが、僕の人生で一番輝いていた時間だったのだ。
夢を叶えてしまった後の、空っぽの時間。
それが、僕の心を蝕んでいった。
元々、僕がこの世界に飛び込んだのは、人間関係に絶望したからだった。
上司、部下、同僚。
あの煩わしいしがらみが、僕の心を壊し、うつへと追いやった。
だからこそ、誰とも会わずに稼げるネットビジネスは、僕にとっての「聖域」だったはずだ。
だが、皮肉な真実に直面する。
「人と関わりすぎる」ことが毒になるように、「全く関わらない」こともまた、猛毒だったのだ。
社会的な孤独が、これほどまでに精神を蝕むとは思いもしなかった。
一人が楽だと思っていた。
孤独こそが自由だと思っていた。
まさか自分が、あれほど避けていた「人との繋がり」を、これほど渇望することになるとは。
「このままではいけない」
具体的にどうすればいいのかは、まだ分からなかった。
けれど、心の奥底で何かが芽生え始めていた。
もっと直接、人の体温を感じられる場所で。
リアルで人と会い、誰かの役に立ち、誰かを助ける。
そんな「手触りのある仕事」を求めていたのかもしれない。
そして、恐れていたことが起きた。
うつの再発。
朝、起き上がれない。
身体が鉛のように重い。
理由もないのに涙が出る。
会社員時代、僕を苦しめたあの黒い影が、再び僕を覆い尽くそうとしていた。
「何か……何か別の刺激が必要だ」
この虚無感を埋めるために。
そして、増えすぎた時間を潰すために。
僕は、あるものに手を出した。
「遊び」のつもりで手を出していたFX(外国為替証拠金取引)だ。
「アフィリエイトで稼いだ種銭がある」
「投資で金を増やせば、もっと自由になれる」
最初は、本当にただの暇つぶしだった。
チャート分析の本を読み漁り、デモトレードで感覚を掴む。
実際に金を賭けてみる。
勝てた。
ビギナーズラックだったが、数万円が数分で増えた。
「なんだ、簡単じゃないか」
「ビジネスも投資も、攻略法さえ分かれば同じだ」
「俺はやっぱり天才だ」
いつしか、それは遊びではなくなっていた。
モニターの中で上下するローソク足。
それが、僕の乾いた心に、久々の「熱」を与えてくれた。
孤独を誤魔化してくれる、唯一の存在。
それはもはや投資ではなく、心の隙間を埋めるための、危険な精神安定剤だった。
だが僕は知らなかった。
この投資が、ただの暇つぶしではなく、僕の人生を破壊するトリガーになることを。
痛みを感じなくなった時こそ、人間は最も危険な状態にある。
麻酔が効いている間に、傷口は壊死し、手遅れになっていく。
そして、その時は来た。
7. 垂直落下 — 砂上の楼閣が崩れる音
2015年、ある朝のことだった。
うつの症状で昼過ぎに目を覚まし、重い体を引きずってPCの前に座った。
いつものようにアクセス解析の画面を見た瞬間、僕は我が目を疑った。
「……え?」
グラフの線が、消えていた。
いや、消えていない。
「床」に張り付いているのだ。
昨日まで、空に向かって伸びていた線が。
今日の0時を境に、垂直に落下し、ゼロに近い位置を這っている。
訪問者数、10人。
一瞬、思考が停止した。
血の気が引いていく音が、耳元で聞こえた。
サーッというノイズ。耳鳴り。
視界が急に狭くなる。
「バグか?」
震える指でF5キーを押す。更新。
画面が白くなり、また表示される。
変わらない。
もう一度。更新。
F5、F5、F5。
キーボードを叩く音が、部屋に虚しく響く。
変わらない。
「圏外」
検索順位をチェックする。
1位にない。
2位にも、3位にもない。
1ページ目のどこにもない。
2ページ目、3ページ目……。
僕のブログが、インターネットの世界から消滅していた。
Googleのアルゴリズム変動。
通称「Googleアップデート」。
神の裁きが下されたのだ。
「嘘だろ……」
喉がヒューヒューと鳴る。
息が吸えない。
胸のあたりを、巨大な万力で締め上げられているようだ。
脳はまだ「これは夢だ」と現実を否定しようとしている。
だが、身体はすでに理解していた。
手のひらに滲む脂汗。
膝の震え。
胃の奥からこみ上げてくる吐き気。
収益画面を見る。
昨日の収益、35,000円。
今日の収益、0円。
収入が、絶たれた。
一瞬で。
何の前触れもなく。
ただでさえ弱っていた精神に、この一撃は致命傷だった。
ダブルパンチ。
うつで動かない身体と、ゼロになった収入。
「どうする?」
「貯金はある。だが、無収入で食いつなげば1年で底をつく」
「また0からブログを作る? 無理だ、構築している間にお金が尽きてしまうかもしれない」
本来なら再起を図るべき時だった。
だが、当時の僕の頭からは「地道に作る」という概念そのものが抜け落ちていた。
ただひたすらに、減っていく数字への恐怖だけが思考を支配していた。
頭の中を、現実的な恐怖が駆け巡る。
今まで「なんとかなる」と先送りにしてきたツケが、一気に押し寄せてくる。
喉元に、冷たいナイフを突きつけられた感覚。
生殺与奪の権を、他人に握られていたことの恐怖。
「俺の城……」
それは城ではなかった。
砂場に作った、ただの山だった。
波が一度来ただけで、跡形もなく消え去る、脆い砂の山。
僕は画面の前で、動けなかった。
PCのファンの音だけが、虚しく響いていた。
それは、砂上の楼閣が崩れ去る音だった。
8. 回復の幻影 — 泥沼へのフルスロットル
ここからの僕は、早かった。
転落への坂道を、アクセル全開で駆け下りていった。
「取り返さなきゃ」
その一心だった。
ブログはもうダメだ。サイトが飛んだ以上、復旧には時間がかかる。
今すぐ生活が破綻するわけではない。
だが、将来への不安を埋めるために、今のうちに何とかして金を稼いでおかなければならない。
実はこの時、師匠から一本の電話があった。
「藍沢さん、様子がおかしいですね。一度手を止めて、冷静に話し合いませんか? 策はいくらでもあります」
それは、地獄に垂らされた蜘蛛の糸だった。
この時、素直に「助けてください」と言えていれば、未来は変わっていたかもしれない。
だが、当時の僕にその手を取る余裕は残っていなかった。
頭の中は「金」と「返済」の二文字で埋め尽くされ、他人のアドバイスが入る隙間など1ミリもなかったのだ。
「……大丈夫です。自分でなんとかします」
「藍沢さん、待ってください。一人で抱え込んでは――」
師匠の言葉を遮るように、僕は通話ボタンを切った。
師匠を信頼していないわけではない。だが、その時の僕の脳内は「一刻も早く金を稼がなければ」という強迫観念で沸騰していた。
僕を支配していたのは、異常なまでの「金」への執着と、それを失うことへの根源的な恐怖だった。
金がなくなることは、僕にとって死ぬことよりも恐ろしかった。
「話し合っている時間なんてない。今すぐ手を動かさないと、人生が終わる」
そんな理不尽な恐怖心が、恩人の言葉さえも雑音に変えてしまっていたのだ。
僕の頭に浮かんだのは、皮肉にも、暇つぶしで始めていた「FX」だった。
「俺には、まだこれがある」
「アフィリエイトがダメでも、トレーダーとして食っていけばいい」
焦った人間が、一番やってはいけないこと。
それは「ギャンブル」だ。
僕は、残っていた貯金をすべて証券口座に移した。
さらに、手っ取り早く結果が出る「バイナリーオプション」にも手を出した。
「秒速で稼ぐ」
そんな甘い言葉に、すがりついた。
正常な判断力があれば、危険だと分かる。
だが、溺れる者は藁をも掴む。
当時の僕は、藁どころか、毒蛇を掴んでしまった。
モニターに映るチャート。
赤と緑のローソク足。
それが、僕の命綱に見えた。
「ここで賭ければ、倍になる」
「負けを取り返せる」
最初は、慎重だった。
だが、一度負けると、頭に血が上った。
「くそっ、次で取り返す」
掛け金を上げる。倍プッシュだ。
また負ける。
「サンクコスト(埋没費用)の罠」。
人は、失ったものを取り戻そうとする時、最も非合理的になる。
「ここで止めたら、負けが確定する」
「続ければ、取り戻せるかもしれない」
その心理が、ブレーキを破壊する。
「あと一回。あと一回だけ」
そう自分に言い聞かせて、何度クリックしただろう。
10回? 50回? 100回?
もう覚えていない。
貯金が溶けていく。
カードのキャッシング枠を使う。
それも溶ける。
ついに、消費者金融に走った。
ATMの前に立った時の、あの寒気。
周囲の目が気になって、背中を丸めて操作する。
画面に表示された「貸付可能額 50万円」。
ボタンを押す指が震えた。
でも、金が出てきた瞬間、麻痺していた感覚が一瞬だけ戻った。
「助かった」
いや、助かっていない。
これは自分の金じゃない。借金だ。
でも、脳がそれを認識できない。
「弾薬が補充された」としか思えない。
「あと一回。あと一回だけ勝てば、全部チャラにできる」
それは、回復への道ではなかった。
地獄への特急券だった。
僕は自分で自分の首を締めながら、「息が吸える場所」を探して泥沼に潜っていった。
9. 死刑執行のクリック — すべての負債が確定した夜
2015年の冬、深夜2時。
部屋は真っ暗だった。
モニターの青白い光だけが、僕の顔を照らしている。
暖房をつけていないのに、背中がびっしょりと濡れていた。
歯がガチガチと鳴る。寒いのか、怖いのか分からない。
画面には、バイナリーオプションの取引画面。
口座残高、残り50万円。
これが、僕の最後の資金だった。
これを失えば、もう後がない。
「High」か「Low」か。
上がるか、下がるか。
確率は2分の1。
この一回に、全ての借金と、起死回生の願いを込める。
勝てば100万。負ければゼロ。
「頼む……」
「神様、今回だけは……」
「これさえ勝てば、もう足洗うから……」
都合のいい祈りを捧げる。
脳内を駆け巡る言い訳。後悔。恐怖。
それらが混ざり合って、吐きそうになる。
マウスを握る右手が、自分の手じゃないみたいに冷たい。
人差し指が、左クリックボタンの上に触れている。
そのわずかなプラスチックの感触だけが、現実だった。
チャートが動く。
今だ。
時が止まった。
5秒。4秒。3秒。
世界中の音が消えた。
クリック。
「カチリ」
乾いた音が、静寂を切り裂いた。
それは、断頭台の刃が落ちる音に聞こえた。
数分後。
判定の時間。
画面の数字が点滅する。
赤色。
「LOSE」
負けた。
最初は、意味が分からなかった。
「LOSE」という単語の意味を忘れたかのように、呆然と見ていた。
数秒後、脳が理解を拒否し、身体が先に崩れ落ちた。
残高の数字が、パラパラと減っていく。
そして、「0」になった。
数百万。
アフィリエイトで稼いだ金、貯金。
その全てが、この瞬間に消滅した。
僕が自分で押したのだ。
破滅のボタンを。
死刑執行のスイッチを。
誰のせいでもない。
Googleのせいでも、詐欺師のせいでもない。
僕の「慢心」と「弱さ」が招いた、必然の結末だった。
椅子から崩れ落ちる気力もなかった。
ただ、画面の「0」という数字を見つめたまま、魂が抜け落ちていくのを感じていた。
10. 残高0円 — 世界から音が消えた
不思議な感覚だった。
絶望のどん底に落ちた時、人は泣き叫んだり、暴れたりするのだと思っていた。
でも、違った。
世界から、音が消えたのだ。
PCのファンの音も。
外を走る車の音も。
自分の呼吸音さえも。
すべてが遠のき、真空の中に放り出されたような静寂。
「無」
感覚がない。
指先がキーボードに触れているはずなのに、感触がない。
寒さも感じない。
ただ、目の前のモニターだけが、やけに鮮明に見える。
「残高 0円」
その文字が、網膜に焼き付いて離れない。
「終わった……」
声に出したつもりだったが、音になったかどうか分からない。
これで、僕は社会的に死んだ。
来月の支払い? 無理だ。
家賃? 無理だ。
食費? 無理だ。
明日から、どうやって生きていけばいい?
ホームレスか?
自己破産か?
それとも、死ぬか?
死ぬ。
その言葉が、頭をよぎる。
ここから飛び降りれば、この苦しみから解放される。
この「無音」の恐怖から逃げられる。
ふと、窓を見る。
ここは3階だ。死ねないかもしれない。
中途半端に怪我をして、動けなくなるのが一番怖い。
痛いのは嫌だな。
そんな、どうでもいいことを考えた。
人生が終わった瞬間に、「痛いのは嫌だ」なんて考えている自分。
それに気づいた時、乾いた笑いが漏れた。
「はは……」
思考が現実感を失い、フワフワと漂っている。
人間は、許容量を超えたストレスを受けると、感情をシャットダウンするらしい。
ブレーカーが落ちたのだ。
その時、ふと思い出した。
100万円の札束を手にした時の、あの「虚無感」。
ああ、そうか。
あの時、身体は知っていたのだ。
この未来を。
「お前は中身がないぞ」「このままだと終わるぞ」と、身体が必死に教えてくれていたのだ。
その声を無視した報いが、これだ。
中身のない風船が、限界まで膨らんで、破裂した。
後に残ったのは、しわくちゃのゴム屑だけ。
それが、今の僕だ。
僕は、幽霊になったような気分で、ただ座っていた。
夜が明けるまで。
白々と空が明るくなるまで。
一睡もできなかった。
涙も出なかった。
ただ、空っぽだった。
11. 次回予告 — 地獄の底で、鏡を見る
膨れ上がった借金。
残高0円。
世界から音が消えた。
僕は、地獄の底に沈んだ。
泥沼の底の底。
もう、これ以上落ちようがない場所。
だが、借金は待ってくれない。
今日から、この膨大な負債を、しぶとく返していかなければならない。
洗面所の鏡の前に立つ。
そこには、死んだような顔をした男が映っていた。
頬はこけ、目は落ち窪み、生気のかけらもない。
これが、数ヶ月前まで「王」を気取っていた男の成れの果てだ。
「……終わったな」
鏡の中の男が、僕を嘲笑った気がした。
明日から始まる日々の重圧が、物理的な重さとなって肩にのしかかる。
600万。
その数字だけが、無限の闇のように僕の前に広がっていた。
「払えないなら死んで返せと言われている気がした」
督促状の山を握りしめながら、僕はコンビニの廃棄弁当を漁った。
借金返済という、長く、暗く、終わりの見えない地獄のトンネル。
その入り口に、僕はたった一人で立っていた。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










