1. 前回のあらすじ — 砂上の楼閣の崩壊
2015年冬、僕の人生は「音」を失った。
月収100万円という栄光。検索順位1位という玉座。
それらはGoogleのアルゴリズム変動という「神のくしゃみ」一つで、跡形もなく吹き飛んだ。
焦った僕は、「秒速で稼ぐ」という甘い言葉に踊らされ、FXとバイナリーオプションの泥沼へと足を踏み入れた。
起死回生を賭けた最後のクリック。
モニターに表示された赤色の「LOSE」の文字。
その瞬間、僕の口座残高は0になり、600万円の負債だけが残った。
積み上げてきたもの全てが崩れ去る音を聞きながら、僕はただ、真っ暗な部屋で動けずにいた。
あれから2年。
2017年、冬。
僕はまだ、地獄の底にいた。
いや、ここからが本当の地獄の始まりだったのかもしれない。
これは、全てを失い、社会的な死を宣告された男が、それでも「生きる」ことを選んだ、再生の記録である。
2. 転落の序章 — 剥がれ落ちる「見栄」
600万。
アフィリエイトで月150万稼いでいた頃の僕にとって、それは「4ヶ月分の収入」でしかなかった。
「本気を出せば、いつでも返せる額だ」
最初はそう高を括っていた。
だが、収入がゼロになった瞬間、その数字は姿を変えた。
それは、僕の人生を押し潰す巨大な岩盤となり、逃げ場のない「壁」となって立ちはだかった。
真っ先に手放したのは、成功の証として買った高級外車だった。
「今までありがとうな」
業者のトラックに載せられていく愛車を見送る。
近所の目が痛い。
「あら、藍沢さん、車売っちゃうの?」
「お金なくなったのかしら?」
そんなヒソヒソ話が聞こえてくるようで、僕は逃げるように家に入った。
そして、かつて「成功者の城」だと思っていた駅近のマンションも引き払った。
家賃を払えるはずもなかった。
新しく住処に選んだのは、築年数の古い、木造アパートの6畳一間。
壁は薄く、隣人の生活音が筒抜けだ。
冬になれば隙間風が吹き込み、夏になれば熱気がこもる。
広々としたリビングも、夜景の見える窓も、最新の家具も。
全てが夢のように消え去った。
残ったのは、借用書の束と、惨めな自分だけだった。
3. 労働のジレンマ — スキルの切り売り
「稼がなければ」
アフィリエイトで稼ぐスキルはある。
サイトを作り、記事を書き、集客する。
その仕組みさえ作れば、また月収100万は夢ではないはずだった。
だが、今の僕には「時間」がなかった。
借金の返済は待ってくれない。
来月の支払い、明日の食費。
それらを稼ぐために、僕は「即金」になる仕事を選ばざるを得なかった。
クラウドソーシングで募集されている、Web制作の下請け。
1文字0.5円のライティング案件。
誰でもできるような、単価の安いWeb作業。
かつては自分のメディアを持ち、不労所得を得ていた僕が。
今は他人のメディアのために、安値で時間を切り売りしている。
「こんなこと、している場合じゃないのに……」
キーボードを叩きながら、悔し涙が滲む。
アフィリエイトサイトを作りたい。
資産になる記事を書きたい。
だが、目の前の数千円を稼がなければ、明日生きていけない。
貧困の罠。
自転車操業の日々。
僕のスキルは、借金の利息を払うためだけに消費されていった。
師匠への連絡も、完全に途絶えていた。
合わせる顔がなかった。
「助けてください」と言えば、きっと手を差し伸べてくれただろう。
だが、自分の愚かさで招いた借金の話なんて、口が裂けても言えなかった。
孤独だった。
世界中から見放されたような気分だった。
4. 恥辱の告白 — 親の愛と自分の情けなさ
どうにもならなくなった時、僕は実家に電話をした。
40歳手前。
本来なら親を安心させ、楽をさせてあげるべき年齢だ。
それなのに、僕は泣きながら借金の告白をした。
「ごめん……失敗した……」
電話口で、子供のように泣きじゃくった。
プライドも何もかも、ズタズタだった。
親は、何も言わずに援助をしてくれた。
怒鳴られることも、説教されることもなかった。
ただ、「ご飯だけはちゃんと食べなさい」と。
その優しさが、ナイフのように胸に刺さった。
振り込まれたお金を見るたびに、自分が情けなくて、惨めで、死にたくなった。
親の年金を削らせて、僕は生き延びている。
社会のゴミだ。
そう自分を責め続ける日々が続いた。
5. 2017年冬 — 300円の弁当と凍える部屋
生活レベルは極限まで落ちていた。
夜8時。
近所のスーパーに行くのが日課だ。
狙いは「半額シール」が貼られた弁当。
店員が出てきて、シールを貼り始める。
その瞬間、僕の手が伸びる。
獲物を狩る獣のように。
398円の弁当が、199円になる。
その差額の200円が、今の僕の命綱だ。
寒いアパートに帰り、冷たい弁当を食べる。
電気代が惜しいから、暖房はつけない。
白い息を吐きながら、硬くなったご飯を噛み締める。
「……何やってんだろ、俺」
かつては寿司屋で値段を見ずに注文していた男が。
今は200円のために目を血走らせている。
惨めだ。
死ぬほど惨めだ。
未来なんて見えなかった。
このまま一生、この泥沼から抜け出せないような気がしていた。
6. 転機 — 「あなただから」という光
そんなある日。
一本のメールが届いた。
それは、借金生活の中で細々と受けていた、Web制作のクライアントからだった。
単価の安い、誰にでもできるような仕事だと思っていた。
僕のことなんて、使い捨ての「下請け業者A」くらいにしか思っていないだろうと。
だが、メールにはこう書かれていた。
「藍沢さん、また新しい案件をお願いできませんか?」
僕は反射的に断ろうとした。
もう精神的にも限界で、新しい仕事を受ける気力なんて残っていなかったからだ。
しかし、メールの続きに目が止まった。
「他の人じゃダメなんです。
藍沢さんの仕事は、丁寧で、想いがこもっている。
僕は、あなただから、お願いしたいんです」
時が止まった。
「あなただから」
その言葉が、凍りついていた僕の心臓を貫いた。
金はなくなった。
地位も名誉も失った。
友達もいなくなった。
親に迷惑をかけるだけの、価値のない人間だと思っていた。
でも、見てくれている人がいた。
僕が泥沼の中で、歯を食いしばって納品した仕事を。
僕という人間の「仕事」と「信用」を、評価してくれる人がいたのだ。
「……あぁ……」
涙が溢れてきた。
枯れたと思っていた涙腺から、熱いものがとめどなく流れ落ちた。
キーボードが滲んで見えない。
僕はまだ、終わっていなかった。
誰かに必要とされている。
僕にはまだ、価値がある。
その事実は、どんな成功法則よりも、どんな大金よりも、僕の魂を激しく揺さぶった。
7. 覚醒 — 鏡の中の自分への宣戦布告
泣き晴らした後、僕は洗面所に向かった。
鏡の前に立つ。
そこには、相変わらず土気色で、くたびれた顔の男が映っていた。
でも、その目は、さっきまでの死んだ魚のような目ではなかった。
微かだが、確かに「光」が宿っていた。
僕は服を脱ぎ、裸になった。
痩せた体に、浮き出た肋骨。
情けない体だ。
だが、ふと、自分の手を見た。
手を握ったり、開いたりしてみる。
動く。ちゃんと、動く。
胸に手を当てる。
ドク、ドク、ドク。
肋骨の下で、心臓が力強く脈打っている。
このリズムは、僕が生まれた時から一度も休まず、僕を生かすために動き続けている。
「……生きてる」
金はない。
でも、俺はいる。ここに、まだいる。
心臓は動き、手足は動き、脳は思考している。
「俺は生きている。心臓は動いている。手足は動く。脳は動く。だから、まだ戦える」
鏡の中の自分を睨みつけ、声に出してそう宣言した。
自分の声が、鼓膜を震わせ、脳に響く。
その物理的な事実を確認した瞬間、僕の中で何かが弾けた。
ゼロになったんじゃない。
余計なものが削ぎ落とされただけだ。
見栄という重い鎧が外れて、裸一貫になっただけだ。
「命があれば、なんとかなる」
「手足が動けば、働ける」
「脳があれば、考えられる」
「生存確認、完了」
僕は鏡の中の自分に向かって、ニヤリと笑ってみせた。
引きつった、不気味な笑顔だったかもしれない。
だが、それは絶望への「宣戦布告」だった。
失ったものを数えるな。
残っているものを数えろ。
命があるなら、それは「負け」ではなく「再スタート」だ。
8. 反撃開始 — 怪物との対峙
覚悟が決まれば、行動が変わる。
僕は机の上に積み上がっていた督促状の山を手に取った。
今まで恐怖の対象でしかなかった「赤い文字」。
それを見ても、もう手は震えなかった。
「……やるしかない」
逃げるのをやめ、怪物(借金)と正面から向き合うことにした。
全ての督促状を開封し、金額を計算する。
そして、借入先の会社一つ一つに電話をかけた。
「すみません、今は全額払えません。でも、必ず払います」
「分割にしてください。月々1万円ずつでも返済させてください」
本来の返済額では生活が破綻してしまう。
だから、恥を忍んでお願いした。
「月々の返済額を、今の僕が払えるギリギリの額まで減らしてもらえませんか」と。
それは、自分の無力さを認める屈辱的な交渉だったが、生き延びるためにはそれしかなかった。
怒鳴られることもあった。
冷たくあしらわれることもあった。
それでも、逃げずに電話をかけ続けた。
恐怖の正体は「未知」だ。
「どうなるか分からない」から怖いのだ。
連絡を取り、状況を把握し、交渉すれば、それはただの「処理すべきタスク」に変わる。
そうやって一つ一つ連絡を終えた時、僕の心は驚くほど軽くなっていた。
怪物の正体を見極め、戦う準備が整ったからだ。
9. 魂の再点火 — 赤い線のゲーム
「よし、次はこれだ」
僕は机の壁に、大きな紙を貼った。
そこには、債権者会社名と月々の返済額がリストアップされている。
毎月、振り込みをするたびに、そのリストに赤ペンで横線を引くことにした。
キュッ。
赤いインクが紙に染み込む。
その音が、たまらなく快感だった。
「よし、今月も返した」
「また一本、線が引けた」
最初は600万という巨大な数字に押しつぶされそうだった。
でも、こうして分解し、一つずつ潰していけば、確実に減っていく。
これはゲームだ。
「借金返済」という名の、人生を賭けたハードモードのゲームだ。
赤い線が増えるたびに、敵のHPが減っていく。
「あと500万」
「あと300万」
「あと100万」
苦痛だったはずの返済が、いつしか「達成感」に変わっていった。
赤い線は、僕の魂の勝利の記録だ。
一本引くたびに、僕は強くなる。
一本引くたびに、自由が近づいてくる。
「俺は、何者でもない」
「ただの、借金持ちのオッサンだ」
そう認めた時、世界は急に優しくなった。
もう、誰かと比べる必要もない。
誰かに良く見せる必要もない。
ゼロに戻ることは、怖いことじゃない。
自由になることだ。
信用という資産を使い、スキルという武器を振るい、借金というモンスターを削っていく。
僕は、戦っていた。
自分の人生を取り戻すために。
10. 次回予告 — 地獄からの生還
地獄の底で、僕は多くを学んだ。
借金600万円は、人生の終わりではなく、再スタートの合図だった。
全てを失った時、余計なものが削ぎ落とされ、本質だけが残った。
プライドを捨てて「助けて」と言う勇気。
恥を乗り越えて前に進む強さ。
惨めさをハングリー精神に変える力。
信用とスキルは、最後まで残る資産だった。
そして、借金返済の赤い線は、不屈の魂の証明となった。
2024年。
最後の赤い線が引かれた瞬間。
Excelファイルの残高が「0」になり、そしてプラスへと転じる瞬間。
僕は、泣かなかった。
なぜか、笑えもしなかった。
そこにあったのは、達成感とも幸福とも違う、予想もしなかった感情だった。
地獄を這い上がった男が手に入れた、本当の強さとは。
そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために立てた、新しい誓いとは。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










