1. 前回のあらすじ — 限界の向こう側
第7話で、君は僕の30歳を見た。
朝、目が覚めても身体が動かない。
天井のシミを見つめたまま、時間だけが過ぎていく。
「会社に行かなきゃ」——頭では分かっている。
でも、身体は鉛のように重く、指一本動かせない。
あれから、一週間が経った。
2012年、初夏。
僕の30歳は、泥のような罪悪感の中にあった。
上司からの着信を無視し、「明日には」「もう少し休めば」と自分に嘘をつき続けた一週間。
そして、運命の夜が訪れる。
第8話は、その深夜の記録だ。
絶望の底で、震える指先が「生きるための出口」を探し当てた、その瞬間の記録だ。
では、2012年6月22日、午前3時の寝室へ。
2. 2012年6月22日 — 午前3時の青い光
2012年、初夏。僕は30歳だった。
深夜。時計を見ると3時台。
部屋が暗い。
カーテンの隙間も暗い。
冷蔵庫のモーター音が、遠くでブーンと唸っている。たまに止まる。
その静寂が、僕の孤独を際立たせる。
布団の中で、iPhone 4Sだけが光っている。
Retinaディスプレイの鮮明な光。
画面が青い。
明るすぎて目が痛い。
その青白い光が、顔の下側だけを照らしている。
鏡を見なくても分かる。今の僕は、幽霊のような顔をしているはずだ。
——眠れない。
また、眠れない。
もう何日、まともに眠っていないだろう。
目は乾いて痛いのに、脳だけが覚醒している。
いや、覚醒しているのではない。
焦燥感という名のノイズが、脳内を駆け巡り続けているのだ。
指が動く。
キーボードの小さい文字を押す音はしない。
まだ慣れないフリック入力。
ただ、ガラスの板をなぞっているだけ。
検索窓に文字を入れる。
変換候補が並ぶ。
どれでもいいみたいになる。
喉が渇いている。
唾を飲む音が、自分の耳の中でゴクリと響く。
息が詰まると、スマホを少し顔から遠ざける。
すると、部屋の闇が迫ってくる気がして、またすぐに画面に顔を近づける。
手が冷たい。
スマホのバッテリー部分だけが少しぬるい。
その微かな熱が、指に移る。
布団の中は体温で生温かいのに、足先だけが氷のように冷たい。
時間が進んでいる。
時計を見たら3時のままに見える。
何回見ても3時。
画面の上の小さい数字だけが変わっている。
——生きたい。
まだ、生きたい。
口には出していない。
でも、指先はその言葉を探していた。
3. 本作を書く理由 — 生存本能の警告音
なぜ僕はこの話を書くのか。
それは、君がもし今「もう打つ手がない」と感じているなら、その絶望の中にも”希望の種”があるからだ。
僕も30歳の時、深夜3時に布団の中でスマホを握りしめていた。
当時は、それを「弱さ」だと思っていた。
「逃げ」だと思っていた。
でも、今なら分かる。
あれは「生存本能」だったのだ。
「生存本能」——それは、理性を超えた魂の声だ。
頭で「もうダメだ」「消えてしまいたい」と思っていても、君の生命(いのち)は常に「助かる道」を探している。
もし君が今、深夜に一人で検索窓に何かを打ち込んでいるなら。
もし君が、この記事にたどり着いているなら。
それは、君の生存本能が正常に機能している証拠だ。
君の魂が、まだ諦めていない証拠だ。
この第8話は、”希望の灯火”を記録した物語だ。
でも同時に、”自分の生存本能を信じる勇気”を記録した物語でもある。
君がこの先、どんな選択をするのかは、君次第だ。
でも、その選択をする前に、僕の30歳の深夜を見てほしい。
理性が降伏し、本能だけが動き出した、あの夜のことを。
4. 全ての肯定 — 闇の中でしか見えない光
もし今の僕が、30歳の自分にタイムスリップできるなら——こう伝える。
「お前が今、深夜に打ち込んでいる検索ワードは、無駄じゃない」
「その検索が、7年後のお前を救う”最初の一歩”になる」
「だから、今の絶望を呪うな。ただ、記憶しろ」
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
逆もまた真なりだ。
影が濃ければ濃いほど、そこにある僅かな光は鮮明に見える。
僕たちは、順調な時には「本当の光」には気づかない。
太陽の下では、星が見えないのと同じだ。
深い闇に落ちて初めて、遠くで瞬く小さな星——「希望」や「本音」が見えるようになる。
あの深夜の青白い光。
あれは、僕の人生という闇夜に浮かんだ、最初の一等星だった。
あの時の検索があったからこそ、僕は”助けを求める勇気”を知った。
あの時の孤独があったからこそ、僕は”同じ痛みを持つ人の存在”を知った。
だから、君にも伝えたい。
君が今、感じている深い闇は、君を飲み込むためのものではない。
それは、君にとっての「本当の光」を見えやすくするための、舞台装置なのだ。
では、記憶しよう。
2012年、初夏の深夜。
指先が震えながら探した、あの光を。
5. 検索の迷宮 — 「死にたい」と「生きたい」の狭間で
検索窓のカーソルが点滅している。
チカ、チカ、チカ。
まるで、僕の心臓の鼓動のように。
最初に打ち込もうとした言葉は、暗いものだった。
「楽になる方法」
「消えたい」
そんな言葉が頭をよぎる。
でも、指が止まる。
エンターキーを押せない。
——違う。
俺が探しているのは、終わりじゃない。
続きだ。
まだ終わりたくない。
一度文字を消す。
バックスペースキーを連打する。
次に浮かんだのは、もっと現実的な、でも認めたくない言葉たちだ。
「仕事 行きたくない」
「上司 パワハラ」
「月曜日 怖い」
検索結果が出る。
「2ちゃんねる」のまとめサイトや、匿名のQ&Aサイトが並ぶ。
独特のアスキーアートと、冷笑的なコメント。
「甘え乙」「みんな辛いです」「辞めたら次はない」
——うるさい。
そんな正論は、もう聞き飽きた。
僕が欲しいのは、説教じゃない。
出口だ。
スクロールする親指が、画面をこする。
同じ行を何度も目で追う。
内容は頭に入ってこない。
ただ、「ここじゃない」「これじゃない」という感覚だけがある。
迷路だ。
情報の迷路。
出口が見えない。
目が乾いて痛い。瞬きの回数が増える。
でも、画面から目を離せない。
離したら、暗闇に飲み込まれてしまいそうで。
そして、ふと、ある単語が頭に浮かんだ。
それは、サラリーマンとしての僕が、無意識に避けてきた言葉だった。
6. 禁断のキーワード — 「休職」という名の非常口
「き、ゅ、う、し、ょ、く」
一文字ずつ、恐る恐る打ち込む。
変換候補に出た漢字。
「休職」。
それは、出世街道からの脱落を意味する言葉だと思っていた。
「あいつは休職した」
それは、社内では「終わった人」のレッテルと同義だった。
でも、今の僕には、それしか残されていない気がした。
検索ボタンを押す。
『うつ病 休職 手続き』
『適応障害 休職 期間』
『休職 給与 手当』
画面が変わる。
そこには、僕の知らない世界が広がっていた。
制度としての休職。
傷病手当金。
診断書。
——制度がある。
法律がある。
守られる権利がある。
その事実に、衝撃を受けた。
会社という閉じた世界の中では、「休む=悪」「休む=死」だった。
でも、一歩外に出れば、そこには「休むための仕組み」が用意されていたのだ。
記事の中に「心療内科」「精神科」という文字が見える。
その単語だけが、妙に立体的に浮き上がって見えた。
「非常口」
その緑色のランプが、暗闇の中で点灯した気がした。
7. 脳内法廷 — 「真面目さ」という名の検察官
だが、すんなりとその非常口に向かうことはできなかった。
僕の中で、激しい裁判が始まったからだ。
被告人は、僕。
そして検察官は、僕の中の「真面目さ」だ。
「逃げるのか?」検察官が問う。
「みんな辛くても頑張っている。お前だけが特別じゃない」
その言葉が、正論として胸に突き刺さる。
今まで僕を支えてきた「責任感」や「忍耐力」といった美徳が、今は僕を追い詰める凶器に変わっていた。
「でも、もう限界なんだ。体が動かないんだ」
僕は小さく反論する。
「甘えるな! 明日行けばなんとかなる」
検察官は決して許さない。
——本当にそうか?
明日行けば、なんとかなるのか?
いや、ならない。
葛藤が渦巻く。
休みたい。でも、休めない。
助かりたい。でも、逃げたくない。
スマホを持つ手が震える。
脂汗が滲む。
真面目な人間ほど、自分の中の検察官が優秀すぎて、決して自分に無罪判決を出せないのだ。
8. 顔のない証言者たち — ネット掲示板の呪い
僕は、救いを求めて、個人のブログや匿名掲示板を読み漁った。
そこには、僕と同じような人たちの叫びが溢れていた。
「朝、涙が止まらない」
「駅のホームに吸い込まれそうになる」
「上司の足音が聞こえるだけで動悸がする」
顔も見えない、名前もない人たち。
でも、彼らの言葉は、どんな専門書よりもリアルで、僕の心に響いた。
「俺だけじゃない」
その事実は、奇妙な安堵をもたらした。
この苦しみは、僕の個人的な欠陥のせいだけじゃない。
誰にでも起こりうることなんだ。
ある書き込みが目に止まる。
『休職してよかった。人生終わるかと思ったけど、なんとかなった』
その一文に、僕は縋り付いた。
何度読み返したか分からない。
「なんとかなった」
そのたった7文字が、僕にとっての聖書になった。
顔のない証言者たち。
彼らが、僕の背中を押し始めていた。
9. 魂の天秤 — 社会的死か、生物学的死か
午前4時を回った。
空が白み始めている。
一番、怖い時間だ。
僕は、心の中で天秤にかけていた。
右の皿には、「今の生活を続けること」。
それは、社会的な地位や給与、世間体を守ることだ。
だが、その代償として、僕の心と体は確実に死に向かっている。
これは「生物学的死」への道だ。
左の皿には、「休職すること」。
それは、キャリアの断絶、世間体への恥、将来への不安を受け入れることだ。
いわば「社会的死」に近い。
だが、その代償として、僕は休息と、自分を取り戻す時間を得られる。
天秤が揺れる。
ギギ、ギギと音を立てて。
今まで僕は、無意識に「社会的死」を恐れ、「生物学的死」のリスクを無視してきた。
「過労死」という言葉が他人事だったように。
自分が壊れるなんて、あり得ないと思っていた。
でも、今は違う。
体が動かない。
感情が死んでいる。
これは、生物としての限界だ。
——どっちだ?
どっちを選ぶ?
社会的に死ぬか。
生物として死ぬか。
究極の二択。
でも、答えはもう、出かかっていた。
生きたい。
どんなに無様でも、どんなに惨めでも。
僕は、まだ生きていたい。
天秤が、ガクリと傾いた。
10. 降伏の朝 — 敗北を認める勇気
「……負けた」
誰にともなく、呟いた。
自分の声が、部屋の空気に溶けていく。
会社に負けた。
上司に負けた。
社会に負けた。
そして何より、理想の自分に負けた。
僕は、強くもなければ、優秀でもなかった。
ただの、弱い人間だった。
その事実を認めた瞬間。
不思議なことに、涙が溢れてきた。
悲しい涙じゃない。
悔し涙でもない。
もっと、温かいもの。
張り詰めていた糸がプツンと切れたような、解放の涙だ。
「もう、戦わなくていいんだ」
降伏宣言。
それは、敗北であると同時に、終戦でもあった。
ずっと肩に入っていた力が抜けていく。
背中に背負っていた重い荷物を、ドサリと下ろしたような感覚。
「降伏は敗北ではなく、終戦だ」
この言葉を、当時の僕はまだ知らなかった。
でも、本能は知っていたのだ。
負けを認めることでしか、終わらせられない戦いがあることを。
11. 現代の祈り — 指先が探した希望
外が明るくなってきた。
スズメが鳴いている。
いつもの朝だ。
でも、昨日までの朝とは、決定的に何かが違っていた。
今日、僕は会社に行かない。
その代わりに、病院に行く。
スマホを置く。
手はまだ少し震えている。
でも、それは恐怖の震えではなく、武者震いに近かった。
検索履歴を見る。
「うつ病」「休職」「心療内科」……。
並んでいるのは、ネガティブな言葉ばかりだ。
でも、今の僕には、それが輝いて見えた。
かつて、人は神に祈った。
教会に行き、祭壇の前で膝をつき、救いを求めた。
現代の僕たちは、スマホに向かって祈る。
孤独な夜、青白い画面に向かって、指先で救いを求める。
「助けて」
「教えて」
「導いて」
検索は、現代の祈りだ。
僕の祈りは、届いたのだ。
ネットの海の向こう側にあった「情報」という形の救済に。
天井のシミを見上げる。
相変わらず、そこにいる。
でも、昨日のような怖い顔には見えなかった。
ただの、茶色いシミだ。
「行くよ」
僕はシミに別れを告げるように呟いた。
這い上がるための、最初の一歩。
救命ボートは、見つかった。
あとは、それに乗り込むだけだ。
次回、第9話。
翌朝。
僕は、ある雑居ビルの前に立っていた。
看板には「〇〇メンタルクリニック」の文字。
エレベーターに乗る足がすくむ。
まるで悪いことをしているようだ。
このドアを開けたら、僕は正式に「精神病患者」になる。
もう、後戻りはできない。
ノブに手をかける。
冷たい金属の感触。
その診断書一枚が、僕の人生を劇的に変えることになる。
「全治3ヶ月」
その言葉を聞いた瞬間、僕は——笑った。
なぜか、笑いが止まらなかったのだ。
君は、自分の弱さを証明する紙切れを見て、心から笑ったことがあるか?
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










