1. 前回のあらすじ — 終電を逃した夜の小さな誓い
第2話で、君は僕の25歳を見た。
深夜の牛丼屋で、一人並盛を掻き込む夜。
味を感じない食事。機械的な咀嚼。
そして、隣の席で紅生姜の山を作る中年男性に、未来の自分の姿を重ねて戦慄した瞬間。
「逃げたい」
そう願い、駅のホームで一瞬足を止めた僕だったが、結局は逃げられなかった。
全力で走り、発車ベルに急かされるようにして飛び乗ったのは、僕を明日もまた会社という戦場へ運ぶ、鉄の檻だった。
「このままでは、終われない」
帰宅後、泥のように眠る直前、僕はそう誓った。
ただ耐えるだけの日々に、ピリオドを打たなければならない。
自分の人生を、自分の手に取り戻さなければならない。
第3話は、その誓いを実行に移そうとした、ある冬の日の記録だ。
僕が選んだ最初の武器は、「有給休暇」という名の当然の権利だった。
だが、その武器を抜こうとした瞬間、僕は会社という組織の本当の姿——“奴隷契約”の正体を知ることになる。
これは、後の僕が「自由な世界」を築くための、最初の、そして最も苦い「実験失敗」の記録でもある。
では、2008年、冬の朝へ。
2. 反逆の狼煙 — 引き出しの中の「白い紙」
2008年、冬。僕は26歳だった。
午前9時。
始業のチャイムが鳴り響く。
フロアには、キーボードを叩く音と、電話の呼び出し音、そしてコピー機の回る低い音が充満している。
いつもの風景。いつもの空気。
だが、今日の僕の心臓は、警鐘のように激しく鳴っていた。
僕は、スチール製のデスクの引き出しに手をかける。
一番下の、深い場所。
書類の山の下から、ある「束」を取り出す。
「有給休暇申請書」。
入社時に配られたその冊子は、一枚も切り取られることなく、新品のまま眠っていた。
その白さが、僕の目には眩しく映った。
それは、僕たちが持っているはずの「権利」が、いかに使われていないか——いや、死んでいるかを証明する遺影のようだった。
周囲を盗み見る。
誰も僕を見ていない。
皆、死んだ魚のような目でモニターを見つめている。
僕は深呼吸をし、ボールペンを執る。
「氏名:K.藍沢」
「希望日:2月15日」
「理由:私用のため」
カリカリ、カリカリ。
ペンの走る音が、静寂の中に響く気がした。
たったこれだけのことだ。
数行の文字を書くだけ。
法律で認められた、労働者の当然の権利を行使するだけ。
なのに、なぜ手が震える?
なぜ、悪いことをしているような罪悪感が胸を締め付ける?
それは、この空間に漂う「空気」のせいだ。
「休む奴は悪だ」
「忙しいのに権利を主張する奴は裏切り者だ」
そんな無言の圧力が、オフィスの隅々にまで染み付いている。
だが、僕は書いた。
震える手で、最後の一画まで書き切った。
これは事務手続きではない。
反逆だ。
僕の人生を搾取し続けるこの巨大なシステムに対する、ささやかな、しかし決死の狼煙(のろし)なのだ。
まるで、卑金属を黄金に変えようと足掻く未熟な錬金術師のように、僕は「紙切れ」を「自由へのチケット」に変えようとしていた。
僕は申請書を切り取り、クリアファイルに挟んだ。
席を立つ。
上司のデスクまでは、わずか5メートル。
その距離が、今の僕には断崖絶壁を渡る吊り橋のように長く感じられた。
3. 処刑台への行進 — デスクまでの永遠の30秒
一歩、また一歩。
グレーのカーペットの上を歩く。
足が重い。
まるで重力が増したようだ。
革靴の音が、やけに大きく響く気がして、僕はつま先で歩くようにして進む。
僕には変な癖があった。緊張すると、無意識に右手の親指の爪を人差し指で弾いてしまう。
パチ、パチ。
微かな音が、僕の焦燥感を煽る。
周囲の同僚たちの視線が、背中に突き刺さるような錯覚を覚える。
「あいつ、どこへ行くんだ?」
「まさか、休もうとしているのか?」
そんな囁き声が聞こえるような気がして、冷や汗が背筋を伝う。
実際には、誰も僕を見ていない。
皆、自分の仕事に没頭し、僕という存在など眼中にない。
だが、僕の中にある「社畜としての本能」が、過剰に警報を鳴らしているのだ。
「引き返せ。まだ間に合う。大人しく席に戻れ」と。
心臓の鼓動が、喉の奥まで上がってくる。
ドクン、ドクン、ドクン。
口の中が乾く。
申請書を持つ指先が、白くなるほど強くクリアファイルを握りしめている。
上司のデスクが見えてくる。
課長は、モニターを睨みつけながら、眉間に深い皺を刻んでいる。
機嫌が悪そうだ。
いや、機嫌が良い時など見たことがない。
常に「忙しい」「人が足りない」「数字がいかない」という呪詛を全身から発している男だ。
彼のデスクの周りには、目に見えない結界が張られているように感じる。
「不用意に近づく者は斬る」
そんな殺気すら漂っている。
あと3メートル。
あと2メートル。
足が止まりそうになる。
「やっぱり、明日にしようか」
「いや、来週の会議の後にしようか」
弱気な自分が、次々と逃げ道を提案してくる。
ダメだ。
今、逃げたら、一生逃げ続けることになる。
あの牛丼屋の夜に誓ったはずだ。
「終わらせる」と。
僕は唇を噛み締め、最後の一歩を踏み出した。
上司の背中が目の前にある。
ワイシャツの背中に滲んだ汗染み。
疲れた猫背。
それが、この会社の未来の姿だ。
僕は息を吸い込み、声を絞り出した。
「か、課長。少し、よろしいでしょうか」
その瞬間、オフィスの空気が凍りついた気がした。
キーボードを叩く音が、一瞬だけ止まったような錯覚。
課長がゆっくりと振り返る。
その目は、感情のない硝子玉のようだった。
「……何だ?」
低く、重い声。
処刑台の前に引き出された罪人のような気分で、僕は震える手で申請書を差し出した。
4. 絶対零度の視線 — 「空気」という名の処刑人
僕は、クリアファイルを差し出す。
中には、あの一枚の紙が入っている。
「あの、有給休暇の申請をお願いしたいのですが……」
声が震えた。
情けないほど小さく、弱々しい声だった。
権利を主張しているはずなのに、まるで許しを乞うような口調になってしまう。
これが、社畜として調教された人間の姿だ。
課長は、クリアファイルを見ない。
僕の顔も見ない。
視線は、まだモニターに向けられたままだ。
沈黙。
1秒。2秒。3秒。
その沈黙が、言葉よりも雄弁に語っていた。
「今、どんな状況か分かっているのか?」
「お前が休めば、誰が迷惑を被ると思っている?」
「自分だけ楽をしようなど、許されると思っているのか?」
無言の圧力が、津波のように押し寄せてくる。
僕は、差し出した手を引っ込めたくなった。
今すぐ「すみません、何でもありません」と言って、逃げ出したくなった。
ようやく、課長が口を開く。
視線はまだモニターに向けたままだ。
「藍沢くん」
「は、はい」
「今、君のプロジェクト、どうなってる?」
「えっと……進捗は順調で、納期には間に合います」
「そうか。で、チームの状況は?」
「……田中さんが体調不良で休んでいるので、少し負荷がかかっていますが、カバーできる範囲です」
「ふーん」
課長はそこで初めて、僕の方を見た。
その目は、完全に死んでいた。
怒りすら感じられない、絶対零度の無関心と軽蔑が混じった目。
「で、休むの?」
その一言が、鋭いナイフのように僕の心臓を刺した。
「休む理由があるのか」と問うているのではない。
「休む権利がお前にあると思っているのか」という断罪だ。
「あ、いや、あの……私用がありまして……」
僕はしどろもどろになる。
「私用」なんて理由にならない。
この会社では、「冠婚葬祭」か「重病」以外は理由にならない。
「リフレッシュ」などという言葉は、辞書に存在しない。
課長は、小さくため息をついた。
それは、「呆れた」という感情表現だった。
「今、忙しいんだけど」
その一言。
たった一言で、僕の全てを否定した。
法律も、労働基準法も、個人の尊厳も、全てを粉砕する魔法の言葉。
「忙しい」。
この絶対正義の前では、どんな権利も無力化される。
「……すみません」
僕は謝った。
何も悪いことをしていないのに。
ただ、法律で認められた権利を使おうとしただけなのに。
反射的に謝罪の言葉が口をついて出た。
僕は後に、この現象を「空気の処刑」と名付けた。
誰も手を下さない。誰も暴力を振るわない。
ただ「空気」だけで、人の意志を圧殺し、権利を剥奪するシステム。
それは、どんな拷問よりも効率的に、人間を奴隷に変える装置だった。
課長は再びモニターに向き直った。
もう用は済んだ、と言わんばかりに。
申請書を受け取る素振りすら見せない。
「存在しないもの」として扱われたのだ。
僕は、差し出したクリアファイルをゆっくりと下ろした。
手の中の白い紙が、急に重く感じられた。
それはもう「権利書」ではなく、「罪状書」に変わっていた。
「空気」という名の処刑人が、僕の首に縄をかけ、足元の台を蹴飛ばした瞬間だった。
5. 敗走 — 引き出しにしまわれた尊厳
僕は背を向けた。
課長にではない。自分自身の「意志」に対してだ。
デスクまでの5メートル。
行きの道よりも、遥かに長く感じられた。
今度は、背中に突き刺さる視線が、幻聴を伴って聞こえてくる気がした。
「ほら見ろ、やっぱり無理だったじゃないか」
「お前ごときが、休めるわけがないんだ」
誰も何も言っていない。
でも、僕の中の「敗北感」が、そう囁き続けていた。
足を引きずるようにして、自分の席に戻る。
椅子に座る。
軋む音が、敗者の悲鳴のように聞こえた。
手元には、まだあの白い紙がある。
「有給休暇申請書」。
僕は、引き出しの一番下を開けた。
そして、その紙を、書類の束の一番下へと押し込んだ。
隠すように。
証拠隠滅をするように。
まるで、自分の中に生まれた「反逆心」そのものを、闇に葬り去るかのように。
引き出しを閉める。
ガチャン。
その冷たい金属音が、僕の心の中にある扉を閉ざす音と重なった。
「これでいいんだ」
心の中で自分に言い聞かせる。
波風を立ててはいけない。
空気を読まなければいけない。
みんな我慢しているんだ。僕だけが逃げるなんて、許されないんだ。
そうやって、自分を正当化する。
そうしなければ、惨めすぎて、泣き出しそうだったからだ。
パソコンの画面を見る。
未読メールが92件に増えている。
全て「至急」。全て「重要」。
僕はマウスを握った。
クリックする。
仕事をする。
思考を停止させて、ただの歯車として回転を始める。
これで、波風は立たない。
これで、上司も機嫌を損ねない。
これで、僕は「良い社員」であり続けられる。
でも、代償は大きかった。
僕は今、引き出しの中に、紙切れ一枚と一緒に、自分自身の「尊厳」をしまい込んでしまったのだ。
自分で自分を裏切った。
その事実は、どんなに忙しく働いても、決して消えることはなかった。
ふと、どこかの席から話し声が聞こえた。
「Aさん、有給取ろうとしたらしいよ」
「マジで? この忙しい時期に? 空気読めないなー」
クスクスという笑い声。
僕は耳を塞ぎたかった。
でも、手を動かし続けた。
自分もその「笑う側」に回ることでしか、精神の均衡を保てなかったからだ。
「そうだな、忙しいもんな」
心の中で呟く。
その言葉は、まるで泥水のように苦く、そして冷たかった。
僕は、完全に敗北したのだ。
会社という巨大なモンスターにではなく、「空気」という見えない怪物に。
6. 奴隷の安寧 — 思考停止という名の麻酔
僕は、引き出しを閉めた瞬間、不思議な安堵感を覚えていた。
「もう、戦わなくていいんだ」
それは、戦場で白旗を揚げた兵士が感じるような、歪んだ安心感だった。
権利を主張する緊張感、上司と対峙する恐怖、同僚からの視線に怯えるストレス。
それら全てから解放されたのだ。
「これでいい。これが正解なんだ」
自分に言い聞かせながら、僕はパソコンに向かった。
目の前には、膨大な量のタスクがある。
未読メールの山、作成すべき資料、チェックすべき数字。
僕は、それらに没頭した。
いや、「逃げ込んだ」と言った方が正しい。
思考を止める。
感情を殺す。
ただひたすら、目の前の作業を処理する機械になる。
カチャカチャカチャカチャ……。
キーボードを叩く音だけが、僕の脳内を満たしていく。
この音は、麻酔だ。
単純作業のリズムに身を委ねることで、僕は「自分の惨めさ」を感じなくて済む。
「Kさん、この資料、まだ?」
「あ、はい! 今すぐやります!」
上司の声に、反射的に明るい声で答える。
さっきまでの冷たい態度はどこへやら、上司はいつもの不機嫌そうな、しかし日常的なトーンに戻っている。
僕が「反逆」を止めたからだ。
僕が「従順な家畜」に戻ったから、彼も安心して飼い主の顔に戻ったのだ。
この関係性は、ある意味で心地よかった。
叱られない。
白い目で見られない。
組織の一部として機能している実感がある。
でも、それは「奴隷の安寧」だった。
鎖に繋がれている限り、餌は貰えるし、外敵から守ってもらえる。
その鎖の重さに慣れてしまえば、自由の不確かさよりも、不自由の安定の方が楽に感じてしまう。
午後3時。
オフィスに琥珀色の西日が差し込む。
窓ガラス越しに届くその光は、冬にも関わらず、どこか生温かく、澱んだ空気を含んでいるように感じられた。
同僚たちが談笑しながらコーヒーを飲んでいる。
僕もその輪に入り、愛想笑いを浮かべる。
「いやー、最近忙しいっすね」
「本当だよな、いつになったら休めるんだか」
ふと、同期のSが声を落として呟いた。
「俺もさ、先週有給出そうとしたんだけど……あの空気で諦めたわ」
彼は自嘲気味に笑った。
僕もつられて笑った。「だよな、無理だよな」
それは、傷の舐め合いですらなかった。
「忙しい俺たち」を確認し合うことで、「休まないこと」を正当化する儀式だった。
「俺だけじゃない、あいつも諦めたんだ」という事実は、僕の罪悪感を麻痺させる絶好の鎮痛剤になった。
心の奥底で、何かが腐っていく音がした。
それは、僕の「自尊心」が死んでいく音だったかもしれない。
でも、僕はその音を、忙しさという名の騒音で掻き消した。
思考停止という名の麻酔を、自ら血管に打ち込み続けたのだ。
7. 深夜の破り捨て — ゴミ箱の中の残骸
午後11時。
帰宅。
誰もいないアパートのドアを開ける。
静寂。
冷たい空気。
オフィスの喧騒から切り離された瞬間、麻酔の効果が切れ始めた。
現実が、津波のように押し寄せてくる。
「何やってんだ、俺……」
玄関で靴を脱ぎながら、力が抜けて座り込む。
あの時、上司の前で引き下がった自分。
引き出しに申請書を隠した自分。
同僚とへらへら笑い合った自分。
その全ての記憶が、鋭い刃物となって僕を切り刻む。
僕は、這うようにして部屋に入り、鞄を開けた。
中から、クリアファイルを取り出す。
そして、その奥に隠していた「有給休暇申請書」を引っ張り出した。
白い紙。
そこには、僕の筆跡で「2月15日」「私用のため」と書かれている。
数時間前、震える手で書いた、あの文字。
「ふざけるな」
怒りが湧いた。
会社に対してではない。
あまりにも弱く、あまりにも情けない、自分自身に対してだ。
ビリッ。
僕は、申請書を破いた。
一度破くと、もう止まらなかった。
ビリッ、ビリッ、ビリッ。
細かくなるまで、何度も何度も破いた。
まるで、自分の弱さを粉砕するかのように。
あるいは、自分の夢や希望そのものを引き裂くかのように。
紙片が、雪のように床に散らばる。
僕はそれを拾い集め、ゴミ箱に投げ捨てた。
ゴミ箱の中の白い残骸。
それは、僕の「26歳の冬」の死体だった。
本来なら、どこかへ出かけたり、ゆっくり本を読んだりできたはずの時間が、ただのゴミとして捨てられたのだ。
「……クソッ」
涙は出なかった。
ただ、乾いた絶望だけが胸に残った。
僕は、そのゴミ箱を見つめながら思った。
このまま、一生こうやって終わるのか?
言いたいことも言えず、権利も主張できず、ただ会社という巨大なシステムに命を吸い取られて、最後はゴミのように捨てられるのか?
その恐怖は、深夜の牛丼屋で感じたものとは、また違う質のものだった。
あれは「未来への恐怖」だった。
これは「現在の自己否定」だ。
今の自分が、たまらなく嫌いだった。
でも、あの時の僕にも、一つだけ誇れることがあった。
それは、このゴミ箱の残骸を見て、「悔しい」と心底思えたことだ。
まだ僕の心は、完全には死んでいなかった。
僕はこの夜、一つの習慣を始めた。
手帳の隅に、小さく「×」を書いたのだ。
「今日、自分を裏切った」という印だ。
いつかこの印がなくなる日を夢見て、僕は震える手でペンを置いた。
8. 次回予告 — 同窓会で知る「残酷な格差」
次回、第4話。
有給休暇を諦め、自分の時間を会社に捧げ続けた冬から数ヶ月。
僕の元に、一通のハガキが届く。
「同窓会のお知らせ」
行きたくなかった。
輝いているであろう友人たちに会うのが怖かった。
でも、僕は参加することにする。
自分がどこまで落ちたのか、その底を確認するために。
そして、まだ引き返せる道があるのかを確かめるために。
そこで僕が見たのは、残酷なまでの「格差」だった。
それは年収の差ではない。
役職の差でもない。
「選んでいる乗り物」の差だった。
友人の何気ない一言が、僕の心を深くえぐる。
そして僕は気づくのだ。
僕が必死にしがみついていたこのレールは、最初から「行き止まり」に向かっていたのだと。
君は最後にいつ、旧友と本音で話した?
——その時、胸を張って自分の「今」を語れたか?
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










