1. 前回のあらすじ — 有給休暇が消滅した日
第3話で、君は僕の26歳を見た。
有給申請書を上司のデスクに持って行こうとした朝。
デスクまでの数メートルが、断崖絶壁のように長く感じられた瞬間。
そして、「今、忙しいんだけど」という上司の無言の圧力(空気)に負け、申請書を引き出しの奥に隠した敗北の夜。
僕はあの日、自分の尊厳を守ることよりも、場の空気を守ることを選んだ。
「奴隷の安寧」——思考を停止し、歯車として回るご褒美に得られる、偽りの平穏。
それに浸ることで、僕は自分を保とうとした。
だが、現実は残酷だった。
あの夜の誓いとは裏腹に、僕は自分の殻に閉じこもり、オフィスの隅で気配を消すだけの存在になり下がっていた。
会社では”空気を読む人間”として扱われ、誰とも本音で話すことはなくなった。
そんなある日、スマホ以前の「ガラケー」が震えた。
それは、僕に残された最後のプライドすらも粉砕する、悪夢への招待状だった。
ここからは、逃げ場のない「公開処刑」の記録だ。
2. 招集令状 — 「久しぶりに会おうよ」という暴力
2009年、秋。
まだ日本でiPhoneを持っている人間など少数派で、誰もが折りたたみ式の携帯電話をカチカチと鳴らしていた時代。
mixiのコミュニティ画面を小さな液晶でスクロールしていた帰り道、ポケットの中で携帯が震えた。
「メール着信」のアイコン。
開くと、学生時代の友人たちのメーリングリストからだった。
「久しぶりにみんなで集まろうぜ!」
「来月、駅前の『魚民』でどう?」
「いいね! 行く行く!」
次々と返信が重なり、センター問い合わせをするたびに未読件数が増えていく。
画面の向こうには、明るい光が見えるようだった。
だが、その光は、薄暗いワンルームにいる僕には眩しすぎた。
世間はリーマンショック後の不況の真っ只中。「派遣切り」や「内定取り消し」という言葉がニュースを賑わせていた。
「正社員でいられるだけマシ」
そんな空気が社会全体を覆っていたが、僕の心は晴れなかった。
「久しぶりに会おうよ」
この何気ない一言が、鋭利な刃物のように胸に突き刺さる。
会いたくない。
今の自分を見られたくない。
当時の僕は27歳。
中小企業の平社員。手取りは20万そこそこ。
毎日満員電車に揺られ、上司の顔色を伺い、深夜の牛丼屋で空腹を満たす日々。
一方、メールで盛り上がっている友人たちは違った。
大手メーカーに就職した奴。公務員になった奴。すでに結婚して子供がいる奴。
mixiの日記には、彼らの「順調な人生」がこれでもかと綴られている。
彼らにとっての同窓会は「成功の確認作業」だ。
だが、僕にとっては「敗北の確認作業」でしかない。
「ごめん、その日はちょっと……」
携帯のボタンを親指で押し、そう打ち込みかけて、指が止まる。
もし断れば、「あいつ、付き合い悪いな」と思われるかもしれない。
「負け組だから来られないんだ」と陰で笑われるかもしれない。
そんな被害妄想が、脳内を支配する。
僕は会社だけでなく、友人関係においてさえも「空気を読むこと」に呪縛されていた。
「了解。参加します」
送信ボタンを押した瞬間、胃のあたりが重く沈んだ。
それはまるで、自分への「召集令状」を受け取ったような気分だった。
戦場へ行くのではない。
処刑台へと向かうための、招集令状だ。
3. 成功者たちの宴 — 居酒屋の個室にある「見えない序列」
当日。駅前の「魚民」。
見慣れた赤い看板の下、階段を上がり、指定された個室の前に立つ。
中からは、すでにドッという笑い声が漏れていた。
その声の明るさが、ドアノブにかけた手を重くさせる。
心臓の鼓動が、少し速くなるのを感じた。
意を決してドアを開けた。
「おう! 遅かったな!」
「久しぶり!」
瞬間、熱気が顔に当たる。
焼き鳥の煙と、安酒の匂い。そして何より、そこに充満している「自信」の匂い。
個室には、10人ほどの同級生が座っていた。
僕と同じ27歳のはずだ。
だが、彼らは何かが違った。
まず、スーツの質感が違う。
僕の量販店の安っぽいスーツとは違い、彼らのジャケットには上品な光沢がある。
ネクタイの結び目はふっくらとしていて、腕時計は照明を反射して鈍く光っている。
そして、肌のツヤが違う。
僕のように、満員電車と睡眠不足で淀んだ灰色ではない。
血色が良く、精気に満ちている。
「こっち空いてるぞ!」
手招きされたのは、テーブルの端の席だった。
いわゆる「下座」だ。
席に座り、ジョッキを持つ。手が微かに震えているのを悟られないよう、すぐにテーブルに置いた。
学生時代は、こんな序列なんてなかったはずだ。
同じ教室で、同じ制服を着て、同じ弁当を食べていた。
カーストなんてものは、運動ができるか、面白いか、それくらいのものだった。
だが今、ここには明確な「社会的な序列」が存在していた。
学生時代は「偏差値」という物差しで測られ、社会に出たら「年収」と「社名」という物差しで測られる。
物差しが変わっただけで、俺たちは死ぬまで同じ「ランク付けゲーム」をやらされているのだ。
上座の中央には、大手商社に入ったAと、メガバンクに勤めるBが座っている。
彼らの周りには自然と人が集まり、話の中心になっている。
一方、僕のような「その他大勢」は、端の席で縮こまり、枝豆をつまむしかない。
「カンパーイ!」
グラスがぶつかる音。
その高い響きが、僕にはゴングの音に聞こえた。
一方的な殴り合いが始まる、残酷なゴングだ。
4. 比較という名の猛毒 — 「年収」という絶対的な物差し
酒が進むにつれ、話題は「過去の思い出」から「現在のステータス」へと移行していった。
それはまるで、トランプの手札を見せ合うポーカーのようだった。
ただし、配られたカードを変えることはできない。
「お前、今どこだっけ?」
「俺? 〇〇商事。まあ、忙しいだけでキツイよ」
謙遜しているようでいて、その口調には隠しきれない優越感が滲んでいる。
社名が出されるたびに、「おおー」「すごいな」という歓声が上がる。
そして、最も残酷なカードが切られる。
「ぶっちゃけさ、ボーナスどれくらい出た?」
一瞬、場が静まり、全員の耳がダンボになる。
「今回は結構良くてさ、手取りで100万くらいかな」
「マジかよ! 俺なんて80万だわ、負けた〜」
100万。80万。
その数字が飛び交うたびに、僕はビールを喉に流し込む。
喉が渇いて仕方がないのに、ビールは砂のように味がしなかった。
僕のボーナスは、20万だった。
しかも、「寸志」という名目で手渡された封筒の薄さを、今でも鮮明に覚えている。
彼らの1回のボーナスが、僕の半年分の手取りに近い。
同じ27年を生きてきて、どこでこれほどの差がついたのか。
「比較」とは、他人の人生の「ハイライトリール」と、自分の人生の「未編集素材」を並べる行為だ。
そんなもの、勝てるわけがない。
編集された彼らの輝かしい瞬間と、僕の泥臭い日常を比べ、勝手に傷ついている。
攻撃はさらに続く。
「俺、来月結婚するんだ」
「実は、マンション買っちゃってさ」
結婚指輪の輝き。新築マンションの写真。
幸せの証拠品が次々とテーブルに並べられる。
「いいなー!」「おめでとう!」
拍手の中で、僕は必死に口角を上げていた。
笑顔を作ろうとすればするほど、奥歯を強く噛み締めてしまう。
こめかみが痛い。
(自慢かよ。いちいち見せびらかすなよ)
そんな醜い嫉妬をしている自分が、たまらなく惨めだった。
比較という名の猛毒が、じわじわと心を蝕み、自分という人間の価値を腐らせていく。
僕はもう、限界だった。
この場から消えてしまいたかった。
背中を冷たい汗が伝うのがわかる。
だが、地獄はこれからが本番だった。
矛先が、ついに僕に向いたのだ。
5. 公開処刑 — 「で、お前はいま何してるの?」
「そういえばさ」
上座に座っていたAが、唐突に僕の方を向いた。
場の視線が一斉に、端の席にいる僕に集まる。
スポットライトを浴びたような、強烈な不快感。
「お前、いま何してるの?」
その瞬間、世界のスローモーションになった。
周囲の雑音が、水中にいるように遠のいていく。
ドクン。ドクン。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが、異常に大きく鳴り響く。
悪気はないのだろう。
ただの会話の流れだ。
だが、その質問は僕にとって、銃口を突きつけられるのに等しかった。
喉が張り付く。
息ができない。
「えっと……普通の会社員だよ」
永遠にも感じる沈黙の後、ようやく絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「会社員って、どこの?」
「いや、そんな有名なとこじゃないし……小さい専門商社で……」
言葉を濁すたびに、自分の輪郭がぼやけていく感覚。
嘘は言っていない。でも、真実を言う勇気もない。
「へえ、そうなんだ」
Aの反応は薄かった。
それ以上、突っ込んで聞いてこない。
興味がないのだ。
「あ、そうだ! 次の注文どうする?」
誰かが声を上げた瞬間、テープの早送りのように時間が加速した。
視線が僕から外れ、メニュー表へと移る。
僕は一人、時間の流れから取り残され、暗闇に置き去りにされたようだった。
僕の存在は、まるで最初からなかったかのように、会話の波に飲み込まれて消えた。
僕は手元のグラスを見つめたまま、動けなかった。
これが「公開処刑」だ。
吊るし上げられるわけでも、罵倒されるわけでもない。
ただ、「お前は取るに足らない存在だ」と、無言のうちに処理される。
その静かな断罪が、何よりも惨めだった。
「……トイレ、行ってくる」
席を立とうとしたその時だった。
隣に座っていた、今まであまり話していなかった友人Cが、僕だけに聞こえるような小声で言った。
「藍沢、お前さ……」
彼は少し言い淀んでから、決定的な一言を放った。
「無理して笑わなくていいよ。見てて、痛々しいから」
時が止まった。
頭をハンマーで殴られたような衝撃が走った。
バレていたのだ。
僕が必死に貼り付けていた「愛想笑い」という名の仮面は、とっくに剥がれ落ちていた。
僕は彼らの輪に入れないだけでなく、気を使わせる「腫れ物」だったのだ。
僕は何も言い返せなかった。
顔が熱く燃え上がるのを感じながら、逃げるように個室を飛び出した。
6. 敗走 — トイレの鏡に映る敗残兵
トイレのドアを閉め、鍵をかける。
ようやく一人になれた。
壁に背中を預け、大きく息を吐き出す。
「はぁ……」
ため息が、狭い個室に吸い込まれていく。
便器の水面が揺れている。
外からは、まだドッという笑い声が聞こえてくる。
その声は、壁一枚隔てた向こう側が「天国」であり、ここが「敗者の避難所」であることを残酷に教えていた。
洗面台に向かい、水を出す。
冷たい水で顔を洗う。
顔を上げ、鏡を見る。
そこに映っていたのは、ひどく疲れた顔をした中年男だった。
まだ27歳だ。
なのに、肌はくすみ、目の下にはクマがあり、口角はだらしなく下がっている。
さっきまで見ていた友人たちの、あの輝くような笑顔とは別種の生き物に見えた。
「何やってんだよ、俺……」
鏡の中の自分に問いかける。
声が出ない。
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。
悔しい。
惨めだ。
恥ずかしい。
でも、それ以上に辛いのは、「彼らが悪いわけではない」という事実だった。
彼らは自慢したくてしたわけじゃない。
ただ、努力して手に入れた結果を、当たり前に話していただけだ。
「嫉妬」とは、自分が本当に欲しいものを教えてくれる、残酷な教師だ。
僕が彼らを妬むのは、僕も心の底では「ああなりたい」と願っているからだ。
自由な金、自信に満ちた笑顔、胸を張って言える仕事。
それを持っていない自分への怒りが、彼らへの嫉妬という形で噴き出しているだけだ。
悪いのは、何も積み上げてこなかった自分だ。
「奴隷の安寧」に甘え、思考停止して生きてきた自分の責任だ。
その事実が、鏡の向こうから僕を指差していた。
「……戻りたくない」
本音が漏れた。
あの光り輝く場所には、もう戻れない。
あそこに座っているだけで、細胞の一つ一つが死滅していくような気がする。
僕はハンカチで乱暴に顔を拭くと、ある決意をして個室を出た。
7. 逃げるように帰った夜 — コンビニの袋と冷たい風
「ごめん、ちょっと急用を思い出して……先に帰るわ」
個室に戻り、嘘をつく。
嘘だとバレているかもしれない。
でも、もうどうでもよかった。
友人Cと目が合ったが、僕はすぐに逸らした。
「え、もう? これから二次会なのに」
「まあまあ、忙しいんだろ。またな!」
引き止められることもなく、僕はあっさりと解放された。
逃げるように店を出る。
秋の夜風が、火照った頬に冷たい。
駅前の喧騒を背に、一人で歩き出す。
帰り道、コンビニに寄った。
350mlの発泡酒と、ホットスナックのチキンを買う。
これが今日の晩餐だ。
さっきまで見ていた、高級そうな焼き鳥や刺身とは大違いだ。
ビニール袋が、カサカサと乾いた音を立てる。
その音が、妙に耳についた。
駅のホームで電車を待つ間、僕はビニール袋を強く握りしめた。
指先が白くなるほどに。
(畜生……!)
言葉にならない叫びが、胸の奥で暴れまわる。
悔しい。
ただただ、悔しい。
何が悔しいのかさえ、正確にはわからない。
金がないことか。
見下されたことか。
それとも、何も言い返せなかった自分自身か。
電車が来る。
いつもと同じ、くたびれた車両。
窓に映る自分の顔は、さっきトイレで見た時よりもさらに暗く沈んで見えた。
このまま家に帰って、発泡酒を飲んで、寝る。
そして明日になれば、また「奴隷の安寧」が始まる。
満員電車に揺られ、上司に頭を下げ、深夜に帰る日々。
「嫌だ……」
ボソッと呟く。
「もう、嫌だ……こんな人生」
その夜、僕は初めて、自分の人生を本気で呪った。
そして同時に、心の奥底で、何かが静かに割れる音がした。
それは、僕を縛り付けていた「常識」という名の鎖が、音を立ててヒビ割れた瞬間だったのかもしれない。
8. 次回予告 — 理不尽な謝罪という名の尊厳の破壊
同窓会での敗北は、僕の中にある強烈な「復讐心」に火をつけた。
もう二度と、あんな惨めな思いはしたくない。彼らを見返したい。
だが、その熱い想いを嘲笑うかのように、会社という組織は僕に残された最後のプライドすらも砕きにかかった。
それは、肉体的な疲労ではない。
「仕事」という名義の下に行われる、魂の殺人だった。
自分のミスではないことで、頭を下げ続ける30分間。
上司からの絶対的な命令。
次回、僕は「組織の歯車」として生きることの本当の恐ろしさを知ることになる。
それは、僕の中で何かが完全に「壊れた」日の記録だ。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










