第012話 — 師匠という名の運命の分岐点 —

2013年、春。
退職手続きを終え、僕は正式に「無職」になった。

6畳一間の薄暗いアパート。
聞こえるのは、古びたノートPCのファンが回る、苦しげな駆動音だけ。

「これで、後戻りはできない」

銀行口座には、退職金と貯金を合わせた、なけなしの資金。
これが尽きれば、僕は野垂れ死ぬか、またあの満員電車に戻るしかない。

僕は震える指でキーボードを叩き、一つの決断をした。
「ネットビジネスをやる」
具体的には、アフィリエイトだ。
在庫を持たず、PC一台で始められるビジネス。失うものがない僕に残された、唯一の希望。

だが、その希望は、すぐに絶望へと変わることになる。

それから数ヶ月が経ったある日のこと。

深夜2時。
作業の手を止め、ふとスマホを見る。
ひび割れた画面の向こうで、Twitter(現X)の通知が一件、光っていた。

「ピロン」

その無機質な通知音が、僕の運命を大きく変える合図だったとは、その時の僕はまだ知る由もなかった。

1. 前回のあらすじ — 3650時間の燃料と、エンジンのない車

第11話で、僕は3650時間に及ぶ音声学習によって、脳内のOSを「会社員」から「起業家」へと書き換えた。
それは、狂気じみた「洗脳」の儀式だった。

だが、ここで一つ整理しておかなくてはならない。
僕が3650時間聞き続けた「音声の主(A氏)」と、これから出会う「師匠」は、全くの別人だ。

A氏は、雲の上の存在だった。
彼の音声は、僕に「なぜ自由が必要なのか」「どういうマインドを持つべきか」という「燃料(情熱)」をくれた。
おかげで、僕は会社を辞める勇気を持てた。

しかし、無職になった僕の前には、残酷な現実が横たわっていた。
「マインドは分かった。で、具体的にどうやって稼ぐの?」

僕は、大量のガソリン(やる気)を積んでいるのに、走るためのエンジン(具体的な稼ぎ方)を持っていない車だった。
アクセルを全開に踏んでも、車体はピクリとも動かない。
ただ、行き場のない燃料だけが、ドボドボと地面に垂れ流されていく。

僕は焦っていた。
燃料はあっても、タイヤが回らなければ、ただの鉄屑だ。

2. 彷徨 — 0円という名の氷河期

「稼げない」

アフィリエイトを始めて3ヶ月。
僕は地獄を見ていた。

最初は意気揚々と、ネットで評判だった「初心者向け完全マニュアル(19,800円)」を買った。
ダメだった。
次は「クリックするだけで報酬発生!魔法のツール(29,800円)」。
これもダメ。
「コピペで月収30万(49,800円)」。
全くの嘘だった。

「これがダメなら次、それがダメならまた次」
まるで泥沼のギャンブルだ。
次々と新しいノウハウに飛びつき、なけなしの退職金を切り崩しては実践した。

中には、Googleで検索すれば1秒で出てくるような情報を、さも「極秘ノウハウ」のようにパッケージしただけの、悪質な詐欺商材もあった。
藁にもすがる思いで掴んだその藁は、腐っていた。
今振り返れば、あの時の僕は、ノウハウそのものではなく「一瞬の安心感」という麻薬を買っていたのだと思う。

毎日10時間、PCにかじりつき、記事を書き続けた。
来る日も来る日も、マニュアル通りにキーボードを叩いた。
指紋が薄くなるほど作業した。

しかし、管理画面の報酬額は、残酷なほど「0」のままだった。
稼げる気配なんて、微塵も感じられなかった。
昨日も0円。今日も0円。たぶん明日も0円。

「なぜだ? 教材通りにやっているはずなのに」
「3650時間も勉強したのに、なぜ1円も稼げない?」

安物のノウハウは、所詮、安物でしかなかった。
表面的なテクニックだけで、本質が何も書かれていない。
僕は「地図の偽物」を掴まされ、樹海を彷徨っていたのだ。

貯金残高は、砂時計のようにサラサラと減っていく。
コンビニでおにぎりを買うとき、10円単位の値段を気にする自分が惨めだった。

ある日、スーツ姿の元同僚たちが笑いながら居酒屋に入っていくのを遠目に見た。
僕は反射的に電柱の陰に隠れた。
彼らは「不自由」だが「金」がある。僕は「自由」だが「誇り」すらない。その対比が、胃液が逆流するほど惨めだった。

自由を手に入れたはずなのに、会社員時代よりも貧しく、不安な日々。

「所詮、俺は口先だけの無能だったのか?」

3650時間の自信が、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
暗闇の中で、僕は必死に光を探していた。

3. 遭遇 — Twitterに潜む「裏側の住人」

そんなある日、僕はTwitterで「ある人物」を見つけた。

彼は、決して派手な発信者ではなかった。
「月収100万!」と札束を見せびらかすような安っぽいアカウントとは違う。
淡々と、しかし鋭利な刃物のような言葉で、アフィリエイト業界の「裏側」や「本質」をツイートしていた。

「今の流行りは〇〇だが、裏ではこういうロジックで動いている」
「初心者が陥る罠はここだ」

中でも、僕のスクロールする手を止めさせたのは、こんなツイートだった。
『多くの人は「稼ぐ方法」を探すが、それは間違いだ。探すべきは「財布を開く人間の感情」だ。感情が動かない場所に、金は落ちていない』
その文字を見た瞬間、心臓がドクリと跳ね、指先が微かに痺れた。

その言葉には、現場の最前線で戦っている人間だけが持つ「火薬の匂い」がした。
僕は直感した。
「この人は、本物だ」

僕は彼をフォローし、ブログを隅から隅まで読んだ。
そして、勇気を出してDM(ダイレクトメッセージ)を送った。
「はじめまして、藍沢と申します。いつも勉強させていただいています。僕もブログを書いているのですが……」

彼は意外にも、気さくに返信をくれた。
時折、僕のブログを見ては「ここは直したほうがいいですね」とアドバイスをくれた。

「藍沢さん、この記事、綺麗にまとまってますが、『誰』に向けて書いてますか?
みんなに好かれようとすると、誰にも刺さりませんよ。あくまで参考ですがたった一人、過去の自分に向けて書いてみてください」
その一言で、僕の書く文章の輪郭が、少しだけはっきりした気がした。

僕は舞い上がった。
業界の裏を知り尽くしたプロと繋がれたことが嬉しかった。

だが、現実は甘くない。
たまに貰える無料のアドバイス程度では、僕の「0円」の壁は突破できなかった。
核心部分は、霧の中にあるようで見えなかった。

4. 提案 — 50万円の聖杯

限界だった。
貯金は尽きかけ、精神もすり減っていた。
僕は意を決して、彼にDMを送った。

「本気で稼ぎたいんです。どうか、僕にビジネスを教えてくれませんか」

返信はすぐに来た。
その内容は、僕の甘えを断ち切る冷徹なものだった。

「藍沢さん。本気なのは伝わります。
ですが、僕が持つノウハウの核心(コア)は、生半可な気持ちの人間に渡すわけにはいかないのです。
これは強力すぎる武器です。覚悟のない人間が使えば、自他共に傷つけることになる」

ごもっともだ。
プロがタダで技術を教えるわけがない。
画面の前でうなだれる僕に、続けてメッセージが届いた。

「もし、あなたが人生を変えるために『痛み』を引き受ける覚悟があるなら、僕の全てを教えます。
コンサルティング費用は、半年間で50万円です。
これは代金ではありません。あなたの覚悟の重さを測るための数字です。
どうしますか?」

50万円。
当時の僕にとっては、心臓が止まるような大金だ。
残りの貯金の半分以上が吹き飛ぶ。
もしこれで稼げなかったら、僕は完全に終わる。
ホームレス一直線だ。

脳内の警報が鳴り響く。
『やめろ! 詐欺かもしれないぞ!』
『その金があれば、あと数ヶ月は食いつなげるぞ!』

だが、僕は思い出した。
3650時間聞き続けた音声の主が言っていた言葉を。
「痛み(リスク)のない決断に、価値はない」

僕は震える手で、ブラウザからネット銀行にログインした。
振込先を入力する指が、汗で滑る。
「振込実行」のボタンが、断頭台のスイッチに見えた。

「ええい、ままよ!」

カチッ。
静まり返った部屋に、マウスのクリック音だけが、やけに硬質に響いた。
同時に、隣の部屋から微かに聞こえるテレビの笑い声が、僕の孤独を際立たせた。

僕は目を閉じて、ボタンを押した。
口座残高がガクンと減った。
もう、逃げ道はなくなった。

5. 秘伝 — 霧が晴れた瞬間

「入金確認しました」

そして、続けてこう書かれていた。

「正直に言いましょう。今の僕にとって50万円という金額は、大した意味を持ちません。
ですが、今のあなたにとっての50万円は、命の次に重いはずです。
僕は、あなたが『退路を断てる人間かどうか』を見たかった。
その痛みを伴う覚悟、確かに受け取りました」

その日から、彼——いや、「師匠」との本当の関係が始まった。
コンサルティングが始まってすぐに、師匠から「ある教材」と「指示書」が送られてきた。

中身を見て、僕は愕然とした。
今まで僕がネットで必死に集めていた「ノウハウ」とは、次元が違っていた。

「え、そこを見るんですか?」
「こんなやり方があったんですか……」

「藍沢さん、いいですか。ビジネスとは『魚釣り』ではありません。『魚が住みやすい川を作ること』です」
師匠のその言葉を聞いた瞬間、僕の脳内でバラバラだったパズルのピースが、音を立てて嵌まった。
獲物を追うのではなく、獲物が集まる環境を設計する。その視点への転換が、すべてを変えた。

内容はここには書けない。
それは完全な秘匿情報(トレードシークレット)であり、師匠との血の契約だからだ。
だが、一つだけ言えることは、それは魔法のような裏技ではなく、人間の心理を極限まで計算し尽くした「科学」だった。

霧が晴れた。
今まで闇雲にバットを振っていた僕に、ボールの軌道がはっきりと見えた。

「これなら、いける」

僕は言われた通りにブログを修正し、記事を書き直した。
迷いはなかった。
師匠の脳みそを、そのまま自分の指にインストールした感覚だった。

6. 初報酬 — 1億円よりも重い「500円」

そして、その夜は来た。

修正作業を終え、いつものように管理画面を開いた時だ。
湿った畳の匂いと、カップラーメンの残り香が充満する6畳間で、僕は息を止めた。
見慣れた「0」の羅列の中に、異物が混じっていた。

「発生報酬:500円」

時が止まった。
僕は何度も目をこすり、F5キーを連打した。
幻覚じゃない。バグじゃない。
「500円」という数字が、確かにそこに灯っている。

「あ……」

喉の奥から、言葉にならない声が漏れた。
涙が溢れて、画面が滲んだ。

たった500円。
牛丼一杯分の金だ。
50万円を払って、500円。
傍から見れば笑い話かもしれない。

でも、この500円は違った。
会社から与えられた給料ではない。
僕が自分の意志でリスクを取り、師匠を信じ、自分の手で市場から勝ち取った、初めての「成果」だ。

僕はすぐに師匠に報告した。
「師匠! 500円! 500円稼げました!!」

数分後、師匠から返信が来た。

「おめでとう、藍沢さん。
その500円は、会社員が貰う100万円よりも価値がある。
それは、あなたが『自分の足で歩き出した』という証明だからです。
一生、忘れないでくださいね」

追伸として、「今日は祝い酒ですね。僕は下戸なのでコーラで乾杯します」と添えられていた。
冷徹なサイボーグだと思っていた師匠が、急に「炭酸好きの兄ちゃん」に見えて、僕は涙と同時に少し笑ってしまった。

その言葉を見た瞬間、僕は子供のように声を上げて泣いた。
孤独な6畳間で、一人ボロボロと泣いた。
不安も、恐怖も、後悔も、すべてが涙と一緒に洗い流されていった。

「俺は、生きていける」

確信した。
この500円は、僕の人生において「お金」が「給料」から「報酬」へと変わった、歴史的な分岐点だった。

0が1になったのだ。
あとは、この1を10にし、100にするだけだ。
エンジンはかかった。もう、止まることはない。


君に問いたい。
君の人生における「500円」はなんだろうか?
金額の大小ではない。誰にも頼らず、自分の力だけでゼロから生み出した「最初の1」はすでにあるだろうか?
もしあるなら、その種火を絶やしてはいけない。もしないなら、まずはそこを目指すべきだ。

7. 次回予告 — 月収100万という名の毒の果実

500円の初報酬から、僕の快進撃が始まった。
ダムが決壊したように成果は伸び続け、数ヶ月後には月収100万円を突破していた。
だが不思議なことに、口座の残高が増えるたび、原因不明の「耳鳴り」が僕を襲うようになった。

通帳の桁が増えるたびに、僕の中の「何か」が狂い始めていた。
自分の才能への過信が、風船のように膨れ上がる。

「俺は天才だ」
「人生、こんなに簡単でいいのか?」

成功という名の美酒に酔いしれる僕。
だが、そのグラスの底には、致死性の毒が沈んでいた。

次回、「月収100万という名の毒の果実」。

夢にまで見た月収100万。
だが、ゴールテープを切った瞬間に襲ってきたのは、歓喜ではなく、底なしの「無気力」だった。
僕は知らなかったのだ。
「稼いだ先に何をするか」を決めていない旅が、どれほど残酷な遭難を招くかを。


この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。

しおりを受け取る→

「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」