1. 前回のあらすじ
第6話で、君は僕の30歳を見た。
「吹き溜まり」と呼ばれる第二営業部への異動。
8年間の実績が、一枚の辞令で無になった日。
企画書をゴミ箱に捨てられ、「余計なことは考えるな」と言われた日。
それでも僕は、ノートにこう書いた。
「資産構築開始。目標:35歳で独立。」
あの決意から、2ヶ月が経った。
2. 2012年6月15日、午前6時
目が覚めた。
天井が見える。
白い天井。隅に茶色いシミがある。
起きなきゃ、と思った。
思っただけだった。
身体が動かない。
重いとか、だるいとか、そういう次元じゃない。
腕を上げようとしても、上がらない。
足を動かそうとしても、動かない。
指先に力を入れる方法が、分からない。
息はしている。
目は開いている。
でも、それだけだ。
3. 午前8時
会社に電話しなければならない。
枕元のスマホに手を伸ばす。
その動作だけで、ひどく疲れた。
画面を見る。指が震えている。
発信ボタンを押す。
「……すみません、体調が悪くて、今日は休みます」
声が出た。自分の声じゃないみたいだった。
電話の向こうで、事務の女性が何か言っている。
聞こえているけど、意味が分からない。
「はい」とだけ答えて、切った。
スマホを布団の上に落とす。
それだけで、腕が痛い。
4. 時間
天井のシミを見ている。
どれくらい経ったのか分からない。
1時間かもしれないし、5分かもしれない。
腹が減っているような気がする。
でも、起き上がってキッチンに行くことが想像できない。
トイレに行きたい。
でも、立ち上がる方法が分からない。
喉が渇いている。
枕元にペットボトルがあれば、と思う。
ない。
何も、ない。
5. 午後
カーテンの隙間から光が差している。
昼になったらしい。
外から車の音がする。
誰かが歩いている足音がする。
世界は動いている。
僕だけが、止まっている。
何が起きているのか、分からない。
熱があるわけじゃない。
痛いところがあるわけじゃない。
なのに、動けない。
怠けているのか、と自分に問う。
違う、と思う。
怠けるというのは、動けるのに動かないことだ。
僕は、動けない。
その違いを、誰にも説明できない。
自分にすら、説明できない。
6. 夕方
部屋が暗くなってきた。
一日が終わる。
何もしなかった。
何もできなかった。
トイレには、途中で一度だけ行った。
這うようにして。
戻ってきて、また横になった。
それだけで汗をかいた。
水は飲んだ。
洗面所の蛇口から、直接。
食事はしていない。
スマホを見る。
会社からの着信履歴が3件。
見なかったことにする。
7. 夜
暗い。
電気をつける気力がない。
スマホの画面だけが光っている。
何を検索すればいいのか分からない。
「身体 動かない」と打ってみる。
結果を見る気力もなくて、画面を閉じる。
明日は動けるだろうか。
分からない。
明日のことを考えると、胸が苦しくなる。
だから、考えない。
天井のシミは、暗くて見えない。
でも、そこにあることは分かっている。
僕と同じで、どこにも行けないまま、そこに張り付いている。
眠れない。
でも、起きていても仕方がない。
目を閉じる。
明日が来るのが怖い。
でも、来ないでほしいとも思えない。
何も、思えない。
この日から、僕の時間は止まった。
次回、第8話。
あれから、一週間が経った。
眠れない夜。午前3時。
僕は布団の中で、スマホの画面を見つめていた。
検索窓に、震える指で文字を打ち込む。
「休職」
「うつ病」
「助けて」
それは逃げではなかった。
生き延びるための、必死の祈りだった。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










