1. 前回のあらすじ — 同窓会で知った「格差」の味
第4話で、君は僕の27歳を見た。
2009年、秋。
学生時代の同窓会。「久しぶりに会おうぜ」という招集令状。
そこで僕を待っていたのは、旧友たちとの懐かしい再会ではなく、残酷なまでの「格差」の確認作業だった。
大手商社、メガバンク、結婚、マイホーム。
彼らの口から飛び出す「成功」のカードに対し、僕が切れるカードは一枚もなかった。
手取り20万、寸志のようなボーナス、満員電車と牛丼屋の往復。
そして、友人Cが放った決定的な一言。
「無理して笑わなくていいよ。見てて、痛々しいから」
その言葉は、僕が必死に守ろうとしていた「プライド」という名の薄いガラスを、粉々に砕いた。
僕は逃げるように居酒屋を出て、コンビニのビニール袋を握りしめながら、夜の冷たい風の中で誓った。
「もう二度と、あんな惨めな思いはしたくない」
「彼らを見返したい」
だが、その熱い復讐心を嘲笑うかのように、会社という巨大なシステムは、僕に残された最後の尊厳すらも奪いに来た。
それは、肉体的な疲労ではない。
「仕事」という名義の下に行われる、魂の殺人だった。
第5話は、その「理不尽な謝罪」の記録だ。
君も一度は経験があるかもしれない。
自分のミスではないことで、頭を下げ続けなければならない、あの永遠のような時間を。
では、2010年の夏、客先のオフィスへ向かおう。
2. 理不尽な命令 — 「お前が謝ってこい」
2010年、夏。僕は28歳になっていた。
外は35度を超える猛暑日。アスファルトが溶け出しそうな午後のことだった。
「おい、藍沢」
静まり返ったフロアに、課長の声が響く。
その声のトーンだけで、僕は胃のあたりがキュッと縮まるのを感じた。
「良い知らせ」であるはずがない。
デスクに駆け寄ると、課長は受話器を置いたまま、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「例の納品トラブル、先方がカンカンだ。今すぐ行って謝ってこい」
耳を疑った。
そのトラブルは、完全に製造部門のミスだった。
設計図の寸法ミス。僕ら営業部門には何の手出しもできない領域の話だ。
すでに製造部の担当者が対応しているはずだった。
「え……でも、あれは製造のミスで、僕の方では……」
「そんなことは分かってる!」
課長が机を叩いた。
乾いた音が、フロアの空気を一瞬で凍らせる。
周囲の社員たちが、一斉に視線を逸らし、キーボードを叩く振りを始めたのが分かった。
誰も関わりたくないのだ。
「製造の連中は今、修正対応で手一杯なんだよ。誰かが頭を下げに行かなきゃ収まらないだろ」
「お前が担当なんだから、お前が行け」
「理由は関係ない。とにかく行って、許してもらうまで帰ってくるな」
理屈が通っていない。
なぜ、ミスをした当人たちが涼しい顔をしていて、何も悪くない僕がサンドバッグになりに行かなければならないのか。
喉元まで出かかった反論を、僕は飲み込んだ。
ここで反論しても、倍の音量で怒鳴られるだけだ。
第3話で「有給申請書」を隠したあの日から、僕は学習してしまっていた。
この場所では「正しさ」よりも「服従」の方が、生存確率が高いことを。
「……承知いたしました」
僕は深く頭を下げ、逃げるようにデスクを離れた。
背中に突き刺さる「あいつ、貧乏くじ引いたな」という同僚たちの視線。
それは同情ではなく、明日は我が身という恐怖と、「自分じゃなくてよかった」という安堵の入り混じった、冷たい視線だった。
僕は鞄を掴み、灼熱の屋外へと飛び出した。
3. 護送車のようなタクシー — 処刑場への移動
会社の入館証を首から外し、大通りでタクシーを止める。
自動ドアが開き、冷房の効いた車内へと滑り込む。
「〇〇町の、△△製作所までお願いします」
行き先を告げると、初老のドライバーは無言でメーターを倒した。
車が走り出す。
涼しい風が顔に当たるはずなのに、汗が引かない。
ワイシャツの背中が、じっとりと肌に張り付いているのが分かる。
車窓を流れる景色は、真夏の強烈な日差しに焼かれて白く飛んでいた。
交差点で信号待ちをするサラリーマンたち。
日傘を差して歩く女性。
みんな、それぞれの日常を生きている。
だが、僕だけが今、日常から切り離され、「処刑場」へと運ばれているような気分だった。
「何で俺が……」
後部座席で、小さく毒づく。
声に出しても、虚しさが増すだけだった。
胃が重い。
昼に食べた蕎麦が、消化されずに胃の中で鉛のように固まっている気がする。
シートの革の匂いと、芳香剤のレモンの匂いが混ざり合った、独特の車内の匂い。
それが妙に鼻について、吐き気を誘う。
(あと20分くらいか……)
到着までの時間が、死刑執行までのカウントダウンのように感じられる。
頭の中で、謝罪のシミュレーションを繰り返す。
「大変申し訳ございませんでした」
「管理不足でした」
「二度とこのようなことがないよう……」
言葉にするだけで、自分がどんどん惨めになっていく。
自分のミスなら、納得もできる。
だが、これは「濡れ衣」だ。
他人が犯した罪のために、なぜ僕が頭を下げ、罵倒されなければならないのか。
「お客さん、着きましたよ」
ドライバーの声で、現実に引き戻された。
窓の外には、見慣れた灰色のビルがそびえ立っている。
△△製作所の本社ビル。
いつもなら商談に来る場所だが、今日はそこが巨大な監獄のように見えた。
「……ありがとうございます」
震える指で財布から小銭を出し、料金を支払う。
ドアが開く。
モワッとした熱気が、再び僕を包み込む。
僕は深く息を吸い込み、覚悟を決めて車を降りた。
そこには、僕の尊厳を破壊するための舞台が用意されていた。
4. 敵地の空気 — 腕を組む3人の男たち
受付で名前を告げると、すぐに女性社員が現れた。
彼女の表情には、ビジネススマイルすら張り付いていなかった。
無言のまま、背を向けて歩き出す。
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音だけが、静かな廊下に響く。
通されたのは、突き当たりの応接室だった。
「こちらでお待ちください」
そう言い残し、彼女は去っていった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
僕は指定された下座のソファに座ることもできず、直立不動のまま入り口を見つめていた。
手汗が止まらない。
ハンカチで拭っても、すぐにまた滲んでくる。
数分後、ガチャリとドアノブが回った。
入ってきたのは、3人の男性だった。
先頭は、いつもやり取りをしている担当者の鈴木さん(仮名)。
だが、その後ろに続く2人は見たことがなかった。
一人は白髪交じりの強面で、もう一人は神経質そうな眼鏡をかけている。
おそらく、製造部長と品質管理の責任者だろう。
3人とも、腕を組んで入ってきた。
そして、無言のまま僕を睨みつけ、ドカッと上座のソファに座った。
「……お忙しいところ、お時間をいただき申し訳ございません」
僕は90度の角度で頭を下げた。
だが、返事はない。
シーンと静まり返った室内。
聞こえるのは、エアコンの低い駆動音と、僕の荒い呼吸音だけ。
この沈黙が、何よりも恐ろしかった。
彼らは知っているのだ。
沈黙こそが、相手を委縮させ、心理的に優位に立つための最強の武器であることを。
「で?」
最初に口を開いたのは、白髪の男だった。
低い、地を這うような声。
「どういうつもりだ?」
具体的な指摘ではない。
ただ、感情的な怒りをぶつけられる予感。
空気が重い。
酸素が薄くなったように感じる。
僕は顔を上げた。
3人の視線が、レーザーサイトのように僕の眉間に集中している。
鈴木さんは、僕と目を合わせようともしない。
彼は彼で、社内で突き上げを食らっているのだろう。
そのストレスの矛先が、今、全て僕に向けられている。
ここは敵地だ。
味方は一人もいない。
僕は丸腰のまま、ライオンの檻に放り込まれたウサギだった。
これから始まるのは、話し合いではない。
一方的な「捕食」だ。
5. 尊厳の破壊 — 「申し訳ございません」のループ
「弊社の管理不足により、多大なるご迷惑をおかけし……」
僕は用意してきた謝罪の言葉を並べた。
だが、その言葉は空中に放り出された瞬間、無力化された。
「そんな定型文を聞きたいんじゃないんだよ!」
白髪の男がテーブルを叩く。
ドンッ!という鈍い音が、心臓を直接殴られたように響く。
「なんであんな初歩的なミスが起きたんだ? お前のところは、図面も読めないのか?」
「いえ、その……製造ラインでの確認漏れがありまして……」
「言い訳すんな!」
罵声が飛ぶ。
唾が飛び散るのが見えた。
「お前が担当だろ? お前の管理が甘いからこうなったんだろ? 違うか?」
違います、と言いたかった。
僕は図面を完璧にチェックして渡した。
製造部が勝手に工程を省略したのが原因だ。
だが、それを言えば「責任転嫁」と取られ、さらに火に油を注ぐことになる。
「……おっしゃる通りです。私の管理不足です」
僕は嘘をついた。
自分を守るための嘘ではない。
この場を早く終わらせるための、屈辱的な嘘だ。
「申し訳ございません」
頭を下げる。
視界が床のカーペットだけになる。
首の後ろが熱い。
「声が小さい! 誠意が感じられないんだよ!」
眼鏡の男が冷たく言い放つ。
「申し訳ございません!!」
声を張り上げる。
まるで新兵の訓練だ。
いい大人が、密室で3人に囲まれ、大声で謝罪を強要されている。
そこからの時間は、地獄のループだった。
「どう責任取るんだ?」
「申し訳ございません」
「損害が出たら払えるのか?」
「申し訳ございません」
「顔も見たくないわ」
「申し訳ございません」
僕は壊れたレコードのように、同じ言葉を繰り返した。
思考が停止していくのが分かった。
これ以上考えると、心が壊れてしまう。
だから、僕は「感情」のスイッチを切った。
ただの「謝罪マシーン」になろうとした。
言葉の意味など考えない。
ただ、相手の罵声に反応して、頭を下げるだけの機械。
(早く終われ……早く終われ……)
頭の中では、それだけを祈っていた。
額から汗が滴り落ち、床に染みを作る。
その染みが、自分のプライドの死骸のように見えた。
30分後。
彼らの気が済んだのか、それとも疲れたのか。
「もういい。帰れ」
吐き捨てるように言われた。
僕は最後にもう一度、深く頭を下げた。
首が悲鳴を上げていたが、痛みすらも遠くに感じた。
「失礼いたしました」
ドアに向かう。
背中に、彼らの軽蔑の視線を感じながら。
ドアノブを掴む手が、震えて力が入らなかった。
僕は、何か大切なものをこの部屋に置き忘れてきたような気がした。
それは「尊厳」という名前の、人間にとって最も重要な部品だった。
6. 透明な血 — 応接室を出た直後の虚無
応接室を出ると、廊下は静まり返っていた。
さっきまでの怒声が嘘のようだ。
僕はふらつく足取りでエレベーターホールへ向かった。
ボタンを押す指が震えている。
自分の手なのに、他人の手のように感覚がない。
エレベーターが来るまでの数秒間が、永遠に感じられた。
鏡面仕上げのドアに、疲れ切った男が映っている。
髪は乱れ、目は虚ろで、ネクタイは少し曲がっていた。
それが自分だと認めたくなかった。
1階に着き、ロビーを抜けて回転ドアを出る。
ムワッとした熱気が、全身にまとわりつく。
外はまだ明るく、太陽は容赦なく照りつけていた。
ビルの入り口付近にある植え込みで、蝉が狂ったように鳴いている。
ジジジジジジ……。
その喧騒が、耳鳴りのように頭に響く。
僕はビルの陰に隠れるようにして立ち止まった。
大きく息を吐き出す。
「はぁ……」
肺の中に溜まっていた澱んだ空気を吐き出すと、代わりに熱い吸気が入ってくる。
身体の力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを必死で堪えた。
(終わった……)
一応、任務は完了した。
相手の怒りを受け止め、サンドバッグになり、嵐が過ぎ去るのを待った。
会社的には「よくやった」と評価されるかもしれない。
「火消し」としての役割を果たしたのだから。
だが、僕の中には達成感など微塵もなかった。
あるのは、巨大な喪失感だけ。
自分の身体から、何かがドボドボと流れ出ているような感覚があった。
血ではない。
もっと目に見えない、人間としての誇りや自尊心といった、生きるためのエネルギーだ。
それが「透明な血」となって、アスファルトの上に垂れ流されている気がした。
通りを歩く人々が、僕の横を通り過ぎていく。
楽しそうに話す学生、忙しそうに電話をするビジネスマン。
彼らには、僕が見えているのだろうか?
今の僕は、中身が空っぽになった「抜け殻」のように、誰の目にも映っていないのではないか。
そんな妄想に取り憑かれるほど、僕は自分自身の存在を希薄に感じていた。
ただの「機能」として扱われ、使い捨てられた部品。
それが今の僕の正体だった。
7. 帰路の怒り — 握りしめた拳と爪の跡
再びタクシーを拾い、会社への帰路につく。
行きと同じ道。同じ景色。
だが、心持ちは天と地ほど違っていた。
緊張の糸が切れた反動で、今度は猛烈な「怒り」が湧き上がってきた。
(ふざけるな……!)
後部座席で、膝の上に置いた拳を強く握りしめる。
爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。
だが、その痛みだけが、僕がまだ生きていることを教えてくれる唯一の感覚だった。
理不尽な客への怒りではない。
ミスをした製造部への怒りでもない。
いや、それもあるが、もっと許せないものがあった。
それは、僕を「生贄」として差し出した上司への怒りであり、
そして何より、それを甘んじて受け入れ、ペコペコと頭を下げ続けた「自分自身」への怒りだった。
なぜ、「それは私の責任ではありません」と言えなかったのか。
なぜ、「こんな扱いは不当です」と席を立てなかったのか。
生活のため?
給料をもらっているから?
組織の一員だから?
「クソッ……!」
そんなもっともらしい理由で、自分を納得させようとしている自分が情けなくて、涙が出てきた。
悔しい。
ただただ、悔しい。
僕は今日、給料と引き換えに、自分の魂の一部を切り売りしたのだ。
そうやって切り売りを続けた先に、何が残るというのか。
課長のように、部下を平気で生贄にする人間に成り下がるのがゴールなのか。
タクシーの窓に、自分の顔が映る。
その目は、第4話でトイレの鏡で見た時よりも、さらに深く、暗く沈んでいた。
「もう、限界だ」
心が、はっきりとそう告げていた。
これ以上、自分を殺して生きることはできない。
このままでは、僕は本当に「人間」でいられなくなる。
タクシーが会社の前に着く。
僕は涙を拭い、深呼吸をして、「会社員の仮面」を付け直した。
だが、その仮面の下にある素顔は、もう以前の僕とは違っていた。
何かが決定的に壊れ、そして何かが静かに燃え始めていた。
8. 次回予告 — 異動先で待つ「パワハラ地獄」
理不尽な謝罪を終え、ボロボロになって会社に戻った僕を待っていたのは、労いの言葉ではなく、さらなる絶望だった。
「お前、来月から異動な」
突然の辞令。
飛ばされた先は、社内でも有名な「墓場」と呼ばれる部署だった。
そこで僕を待ち受けていたのは、今回の比ではない、人格を否定される毎日の始まり。
精神を削り取られる日々に、ついに僕は「ある行動」に出る。
それは、会社員としての死を意味する暴挙だった。
次回、僕は組織の闇の最深部を覗くことになる。
そして、逃げ場を失った僕の前に、一枚の「白い紙」が突きつけられる。
君は、自分の心が壊れる音を聞いたことがあるか?
その音は、意外なほど静かに、そして突然訪れる。
この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。
「ここは《しおり受け取り口》だ。次の扉の案内が必要なときだけ送る。」










