第002話 — 深夜の牛丼屋という名の亡霊の停留所 —

1. 前回のあらすじ — 満員電車で死んだ朝

第1話で、君は僕の23歳を見た。

満員電車に揺られ、他人の汗と息の中で身動きできない朝。
「このままでいいのか?」という問いを、「仕方ない」という言葉で押し殺す日々。

あれから、何も変わらなかった。

いや、正確に言えば——悪化した。

残業時間は増え、終電を逃す日が増え、深夜の牛丼屋が”帰宅前の最後の停留所”になった。

第2話は、その深夜の牛丼屋での記録だ。

では、午後11時のカウンター席へ。

2. 午前0時の亡霊たち — 黄色い看板の引力

2007年、秋。僕は25歳だった。

午後11時15分。
オフィスを出る。
エレベーターのボタンを押す。
誰もいない。
ウィーン……という降下する音だけが、耳鳴りのように響く。

1階に着く。自動ドアが開く。
外は暗い。風が冷たい。
駅まで歩く。終電まであと30分。

本来なら、一刻も早く家に帰り、一秒でも長く眠るべきだ。
だが、足が駅へ向かわない。
身体が、”補給”を要求している。
栄養ではない。ただ、動き続けるためのカロリーという名の燃料を。

駅前の交差点。
暗闇の中で、牛丼屋の黄色い看板だけが、異様な明るさで光っている。
まるで、行き場のない亡霊たちを誘う灯台のようだ。

吸い寄せられるように、僕はその光に向かう。
ガラス戸に手をかける。
指先が冷たい。

「チリン」

安っぽい鈴の音が鳴る。
それが、”帰宅前の最後の儀式”の合図だ。

店内には、3人の客。
全員、カウンター席。
全員、スーツ姿。
全員、一人。
そして全員、死んだように下を向いている。

「いらっしゃいませ」

店員の声が飛んでくる。
だが、そこには感情がない。
彼もまた、深夜労働という名の歯車の一部なのだ。
その無機質な声は、歓迎の挨拶ではなく、ただのセンサーの反応音のように聞こえた。

僕は、カウンター席の端に座る。
冷たいプラスチックの椅子が、尻に食い込む。
テーブルは、前の客がこぼした水滴で、少し湿っていた。

メニューを見るふりをする。
だが、見る必要はない。
頼むものは決まっている。

「並盛、つゆだく」

自分の声が、遠くから聞こえる。
それは、注文ではない。
「燃料、満タンで」という、機械への指令だ。

3分後。
牛丼が運ばれてくる。
湯気が立つ。
甘辛い醤油の匂いが鼻をつく。

普段なら食欲をそそるはずのその匂いが、今はただの「有機物の臭い」にしか感じられない。
胃袋が重い。
だが、食べなければならない。
明日もまた、あの満員電車に乗るために。
明日もまた、飼育小屋で働くために。

僕は、割り箸を割る。
乾いた音が、静まり返った店内に響いた。

3. 補給という名の食事 — 味のない並盛つゆだく

一口目を口に運ぶ。

……味がしない。

いや、正確には「しょっぱい」という信号は脳に届いている。
だが、「美味しい」という感情が湧いてこない。
味覚センサーは機能しているが、それを処理する感情回路がショートしているようだ。

これは心理学でいう「感情鈍麻(かんじょうどんま)」の状態に近い。
ストレスが限界を超えると、人間は感情のスイッチを切る。味がしないのは、舌の問題じゃない。心の防衛反応だ。

噛む。飲み込む。また噛む。

肉は柔らかい。玉ねぎは甘い。
それは分かっている。
だが、僕にとっては、それらはただの「炭水化物」と「タンパク質」の塊でしかない。

ガツガツと掻き込む。
味わうためではない。
早く終わらせるためだ。

この10分間は、食事の時間ではない。
給油の時間だ。
F1のピットインのように、一秒でも早く燃料を流し込み、再びコース(日常)に戻らなければならない。

僕は昔から、食事を”燃料補給”としか思えない人間だった。母親に「ちゃんと味わって食べなさい」と叱られた記憶が、ふと蘇る。
あの頃は笑って聞き流していたが、まさか本当に、味のしない食事を毎日繰り返すことになるとは思わなかった。

カチャ、カチャ。
スプーンと器がぶつかる音だけが、店内に響く。

ふと、自分の手を見る。
スプーンを握る手が、微かに震えている。
空腹のせいか?
いや、違う。
これは、魂の震えだ。

「……」

誰も喋らない。
隣の客も、その隣の客も、黙々と丼に向かっている。
まるで、何かの罰を受けている囚人のようだ。

僕たちは、何のために食べているのだろう?
生きるため?
いや、違う。
「死なないため」だ。

生きることと、死なないことは、似ているようで決定的に違う。
生きるとは、喜びを感じ、未来を夢見ることだ。
死なないとは、ただ心臓を動かし、明日もまた同じ場所へ出勤することだ。

今の僕は、明らかに後者だった。
この牛丼は、僕を生かすための糧ではない。
僕という労働力を維持するための、メンテナンス費用だ。

そう思った瞬間、喉が詰まった。
飲み込もうとした米粒が、喉の奥で引っかかる。

水を飲む。
冷たい水が、食道を流れ落ちていく。
その冷たさだけが、今の僕が感じられる唯一の「リアル」だった。

丼の中身が減っていく。
半分、3分の1、そして最後の一口。

食べ終わる。
満腹感はある。
だが、満足感はゼロだ。
むしろ、胃袋が満たされたことで、心の空洞がより一層際立って感じられた。

「ごちそうさま」

小さな声で呟く。
誰に向けたわけでもない。
ただ、食事という「作業」の終了を宣言するための独り言だ。

僕は伝票を掴み、席を立つ。
その時、ふと隣の席の男が目に入った。

4. カウンター席の鏡 — 隣の男は未来の僕か?

隣の席の男。
推定年齢、40代半ば。
くたびれたグレーのスーツ。
肩にはフケが落ちている。
ネクタイは緩み、ワイシャツの襟元は黄ばんでいる。

彼は、並盛の牛丼に、紅生姜を山のように盛っていた。
まるで、赤い山脈だ。
牛丼の茶色が見えなくなるほど、真っ赤に染め上げている。

彼は、その赤い山を、無心で口に運んでいた。
咀嚼するたびに、顎の肉が揺れる。
額には脂汗が浮かんでいる。

「……」

彼は、携帯でゲームをしていた。
画面には、パズルゲームの極彩色の光が映っている。
指先だけが、忙しなく動いている。

目は死んでいた。
ゲームを楽しんでいるのではない。
ただ、目の前の現実(牛丼と疲労)から逃避するために、脳を麻痺させているだけだ。

その姿を見た瞬間、僕は戦慄した。

「あれは、僕だ」

そう直感した。
当時僕は25歳。彼は45歳くらいだろう。
20年後。
もし僕が、このまま「仕方ない」と言い続け、このレールの上を走り続けたら——。

僕もまた、深夜の牛丼屋で、紅生姜の山を作り、携帯ゲームに逃避しながら、一人で飯を食うことになるのか?

恐怖がこみ上げた。
それは、お化け屋敷の恐怖ではない。
もっとリアルで、もっと冷たく、もっと重い、「未来の確定」に対する恐怖だ。

彼が紅生姜を噛む音が聞こえる。
シャキ、シャキ、シャキ。
その音が、僕の未来を刻むカウントダウンのように聞こえた。

「嫌だ」

心の中で叫んだ。
あんな風になりたくない。
あんな風に、死んだ目をしながら生きたくない。
あんな風に、紅生姜の刺激でしか、生きている実感を得られないような人生は嫌だ。

だが、どうすればいい?
会社を辞める?
無理だ。生活がある。
転職する?
スキルがない。どこへ行っても同じだ。

逃げ道がない。
出口が見えない。
このレールは、あの「紅生姜の山」へと一直線に続いている。

僕は、彼から目を逸らした。
直視できなかった。
それは、自分の未来の死体を見せつけられているような気分だったからだ。

レジへ向かう。
280円を払う。
財布の中には、千円札が2枚と、小銭が少し。
これが、僕の全財産だ。
いや、正確には銀行口座に数万円あるが、それは家賃と光熱費で消える。

「ありがとうございましたー」

店員の声が背中に刺さる。
僕は逃げるように店を出た。

外の空気は冷たい。
だが、僕の背中は冷や汗で濡れていた。

あの男の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
赤い紅生姜の山。
死んだ目。
携帯電話の光。

あれが、僕のゴールなのか?
あそこに向かって、僕は毎日満員電車に乗っているのか?

「ふざけるな」

初めて、怒りが湧いた。
誰に対する怒りかは分からない。
会社か、社会か、それとも自分自身か。

ただ、猛烈に腹が立った。
こんな人生のために、僕は生まれてきたんじゃない。
こんな結末を迎えるために、僕は必死に勉強して、就職活動をして、ここまで生きてきたんじゃない。

でも、現実は残酷だ。
僕の足は、また駅へと向かっている。
明日もまた、会社へ行くために。
あのレールの上を、走り続けるために。

その時だった。
僕の中で、何かが音を立てて崩れ落ちたのは。

5. 限界の音 — 「プツン」と切れた何か

駅の改札前。
僕は立ち止まった。

足が動かない。
物理的に動かないのではない。
脳が、足への指令を拒否しているのだ。

「……もう、無理だ」

口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど小さく、そして震えていた。

それは、諦めの言葉ではなかった。
「拒絶」の言葉だった。

これ以上、このレールの上を走ることを、僕の魂が拒絶したのだ。
満員電車も、無機質な朝礼も、味のない牛丼も、紅生姜の山も。
すべてを拒絶した。

プツン。

耳の奥で、本当に音がした気がした。
それは、僕を社会というシステムに繋ぎ止めていた、最後の理性の糸が切れる音だった。

視界が歪む。
涙ではない。
世界が、ぐにゃりと歪んで見えた。

これまで「常識」だと思っていたビル群が、ただのコンクリートの塊に見える。
「立派」だと思っていたスーツ姿のサラリーマンたちが、ただの疲れた肉の塊に見える。

魔法が解けたのだ。
「会社員として生きることが正解だ」という、社会からかけられていた強力な洗脳魔法が。

その瞬間、僕は強烈な吐き気に襲われた。
胃の中の牛丼が、逆流しそうになる。

「ウプッ……」

口元を押さえる。
違う。牛丼のせいじゃない。
この生き方そのものに対する、生理的な拒絶反応だ。

僕は、駅のトイレに駆け込んだ。
個室に入り、鍵をかける。
便器に向かって、嗚咽する。

何も出ない。
ただ、胃液の酸っぱい味だけが口に広がる。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

個室の中は、異様なほど静かだった。
換気扇の回る、低い音だけが聞こえる。
その静寂が、僕の孤独をより一層深くえぐる。
外の世界の喧騒が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。

荒い息をつく。
鏡を見る。
そこには、蒼白な顔をした、見知らぬ男が映っていた。

目が、血走っている。
でも、さっきまでの「死んだ目」とは違う。
そこには、狂気にも似た光が宿っていた。

「逃げたい」

そう思った。
でも、逃げ場なんてない。
明日も仕事だ。
8時50分にはデスクにいなければならない。

時計を見る。
23時55分。
終電まで、あと10分。

「……行かなきゃ」

口ではそう言った。
でも、心は叫んでいた。
「行くな! そっちに行くな!」と。

でも、僕の身体は、長年の調教によって完全にプログラムされていた。
「会社に行かなければならない」という命令が、本能の叫びをねじ伏せる。

僕は、ふらつく足取りでトイレを出た。
そして、ホームへと向かう階段を上り始めた。

魂が悲鳴を上げているのに、足だけが機械のように動く。
その乖離が、たまらなく気持ち悪かった。

6. 逃走本能 — 終電への全力疾走

ホームに上がる。
アナウンスが響く。

「まもなく、最終電車が参ります」

黄色い線の内側に、数十人のサラリーマンが並んでいる。
皆、疲れ切った顔で、携帯を見たり、あくびをしたりしている。
彼らは待っている。
自分を明日へと運んでくれる、鉄の箱を。

僕も列に並ぶ。
いつもの位置。いつもの車両。
身体が覚えている。

ガタンゴトン、ガタンゴトン。
ヘッドライトの光が、暗いトンネルから近づいてくる。
眩しい。

プシュー。
ドアが開く。
暖かい空気が漏れ出してくる。

「乗車はお早めにお願いします」

前の人が乗り込む。
その次の人も乗り込む。
僕の番だ。

足を上げる。
靴底が、電車の床を踏む。

その瞬間、強烈な自己嫌悪が襲ってきた。

「結局、乗るのか」

さっき、トイレで吐きそうになるほど拒絶したのに。
「もう無理だ」と心が叫んだのに。
結局、僕はまたこの箱に乗るのだ。

プシュー、ガタン。
目の前で、ドアが閉まる。
ガラスに映る自分の顔を見る。
情けない顔だ。
飼い主に逆らえず、尻尾を巻いて小屋に戻る負け犬の顔だ。

ガタンゴトン、ガタンゴトン。
電車が動き出す。
スピードを上げ、遠ざかっていく。
赤いテールランプが、暗闇の中に吸い込まれていく。

僕は、吊り革を強く握りしめた。
指の関節が白くなるほどに。

逃げたい。
でも、逃げられない。
この電車は、僕を家へ、そして明日の会社へと運んでいく。
それは「帰宅」ではない。
「輸送」だ。

窓の外を見る。
流れる夜景。
その中にある無数の光の一つ一つに、それぞれの人生があるはずだ。
でも、僕の人生は、このレールの上以外には存在しない。

「クソッ……」

小さな声で毒づく。
誰にも聞こえない。
電車の走行音が、僕の小さな反逆を掻き消していく。

僕は、全力で走って、全力で逃げたつもりだった。
でも、僕が全力で走って乗り込んだのは、僕を縛り付ける檻そのものだったのだ。

7. 帰宅後の静寂 — シャワーと泥のような眠り

午前0時45分。
アパートに帰宅する。

鍵を開ける。
ドアを開ける。
真っ暗な部屋。
冷たい空気。

「ただいま」

誰もいない部屋に向かって呟く。
返事はない。
冷蔵庫のブーンという音だけが、僕を出迎える。

ネクタイを緩める。
スーツを脱ぐ。
シャツを脱ぐ。
まるで、囚人服を脱ぐような気分だ。

シャワーを浴びる。
熱いお湯を頭から浴びる。
今日一日の汚れを、疲れを、そして牛丼屋での惨めな記憶を、すべて洗い流したい。
でも、どんなに洗っても、心にこびりついた「敗北感」は消えない。

鏡を見る。
濡れた髪。充血した目。
そこには、25歳の若者の姿はない。
ただの、疲弊した労働力の塊があるだけだ。

シャワーを出る。
髪を乾かす気力もない。
そのまま布団に倒れ込む。

枕が冷たい。
布団が重い。

明日は、7時起きだ。
あと6時間しか眠れない。
早く寝なきゃ。
早く回復しなきゃ。
明日もまた、戦場(会社)に行くために。

目を閉じる。
瞼の裏に、あの牛丼屋の光景が焼き付いている。
紅生姜の山。
死んだ目の男。
そして、トイレの鏡に映った、自分の狂気じみた顔。

「……変えたい」

意識が薄れる中で、僕は思った。
このまま終わりたくない。
あんな風になりたくない。

でも、どうすればいいか分からない。
その答えが見つからないまま、僕は泥のような眠りに落ちていった。

8. 次回予告 — 有給休暇が消滅する日

次回、第3話。

深夜の牛丼屋での絶望から数ヶ月。
僕は、ある決断をする。
「有給休暇を取ろう」

それは、会社員として当然の権利だ。
だが、その当然の権利を行使しようとした時、僕は会社という組織の「真の姿」を見ることになる。

上司の冷たい視線。
同僚たちの無言の圧力。
そして突きつけられる、衝撃の事実。

「君の有給は、もうないよ」

その一言が、僕の中の何かに火をつける。
消滅したのは有給だけではない。
僕の会社への「忠誠心」もまた、その瞬間に消滅したのだ。

次回、「有給休暇消滅事件 — 奴隷契約の正体」。

君の有給は、今、何日残っている?
——それを、本当に使えると思っているか?


この物語は先が長い。そのため、途中で迷子にならないように
連載を順番に読み切るための《しおり》を置いておく。必要なら取っておいて欲しい。

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